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千代田区の坂(2) 〜 霞が関・永田町方面 【12坂】
政府機関の建物が数多くあるこの地域には坂道が多くあります。国会議事堂等がある地域は高台になっていて、そこに上る坂が多くなっています。 また、山王の日枝神社があり、それに関係する坂道もあります。 霞が関周辺は、江戸時代は大名屋敷が並ぶ地域でした。『霞ヶ関歴史散歩:もうひとつの近代建築史』(宮田章著、中公新書、2002年)は、この官庁街の建築物の歴史を語る興味深い本ですが、これによると、明治期からこの地域に官庁が置かれ始めたようですが、現在のような形になったのは関東大震災以降だそうです。 |
各坂道の位置はこちら → 地図
霞が関坂 (かすみがせきざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を霞が関坂といいます。中世のころこのあたりに関所が置かれていたといわれ、景勝の地として古歌にもうたわれたものが多く、霞が関の名の起りとなっているようです。江戸時代は広壮な諸大名の屋敷がならんで錦絵にも画かれました。いまでは霞が関というと中央官庁の代名詞につかわれています。 → 霞が関坂のページ |
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潮見坂 (しおみざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を潮見坂といいます。『新撰東京名所図会』には「潮見坂は霞ヶ関(坂)と三年坂との間の坂なり」とかかれています。中世のころまでは日比谷公園のあたりが入江であったといわれています。坂も当時はもっと高く、眼下に海をのぞむことができ、それゆえにつけられた名でしょう。潮見坂、汐見坂の坂名は皇居東御苑をはじめほかにも多くあります。 → 潮見坂のページ |
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三年坂 (さんねんざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を三年坂といいます。「東京名所図会」には「三年坂は潮見坂の南に隣れり、裏霞ヶ関と三年町の間の坂なり、坂をのぼれば是より栄螺尻とす。又淡路坂ともいい、一に此処を陶山が関という」とあり、さらに「栄螺尻、裏霞ヶ関と三年坂の間、道路の盤曲する所をさざえしりと呼び、虎の御門より永田町に出る裏道なり、曲り曲りたる坂の名なり、亦此辺鶯多し、因って鶯谷というよしみえたり」とかかれています。 → 三年坂のページ |
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茱萸坂 (ぐみざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を茱萸坂といいます。またの名を番付坂といいました。「新編江戸志」には丹羽家の表門から見通すことができ内藤紀伊守、本多伊勢守の門を抜けて九鬼長門守へ出る坂で「両側にぐみの木ありし故の名なり」とかかれています。「東京名所図会」では「番付坂、茱萸坂の一名にして昔時山王(日枝神社)の祭礼には必ず此の列に花車の番付札ありて其行列をあらためしよりいう」とかかれています。 → 茱萸坂のページ |
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山王坂 (さんのうざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を山王坂といいます。この坂のあたり明治維新まではほとんどが山王社(日枝神社)の社地であり、社前に下る坂なのでこの名がつけられたのでしょう。また一名鹿島坂と呼ばれていますが、坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の邸宅があったのでそのようによばれたといいます。 → 山王坂のページ |
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山王男坂 (さんのうおとこざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を山王男坂といいます。日枝神社の表参道。左側のゆるやかな坂「女坂」に対して名づけられています。二つの坂を比較して急な坂を男坂、ゆるやかな坂を女坂と呼ぶことは各地にみられます。石段の数五十三。山王の地は又の名称を星が岡ともいう景勝の地でありました。 → 山王男坂のページ |
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山王女坂 (さんのうおんなざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を山王女坂といいます。正面の石段に対しその名がつけられています。また別の名は御成坂とも呼ばれています。東京名所図会には「左緩かに通ずる石階を女坂と呼ぶは非なり。昔時将軍家御成の節、岐坂を避け此坂のみ御通行遊ばれしより御成坂と申侍るを女坂と聞誤しにあらぬかと」とかかれています。 → 山王女坂のページ |
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山王切通坂 (さんのうきりどおしざか) |
【標識なし】 |
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新坂 (しんざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を新坂といいます。新しくできた坂ということでその名がつけられています。明治九年(一八七六)の地図には道は入っていませんが、同一七年(一八八四)参謀本部の図では現在に近い道路がみえています。おそらくその頃できた坂でしょう。また、別の名を遅刻坂とも呼ばれていますが、官庁に向かう役人、登校を急ぐ学生がかばんをかかえてかけ上がる風景からよばれたといいます。 → 新坂のページ |
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三べ坂 (さんべざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を三べ坂といいます。「新撰東京名所図会」には「華族女学校前より南の方に下る坂を、世俗三べ坂という。昔時、岡部筑前守・安部摂津守・渡辺丹後守の三邸ありし故に名づくといふ」とあります。また、坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂門の水番役をかねていたところから、門前の坂は、水坂ともよばれていました。 → 三べ坂のページ |
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梨木坂 (なしのきざか) |
【標識(千代田区教育委員会)の説明】 この坂を梨木坂といいます。「江戸紀聞」では、「梨木坂、井伊家の屋敷の裏門をいふ。近き世までも梨の木のありしに、今は枯れてその名のみ残れり」とかかれています。さらに「東京名所図会」には、「陸軍省通用門と独逸公使館横手の間なる坂を梨の木坂という」とかかれています。 → 梨木坂のページ |
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三宅坂 (みやけざか) |
【標識なし】 三宅坂は首都高速のジャンクションとして有名です。 三宅坂は皇居のお堀端沿いにカーブしながら半蔵門方面へ上っていく比較的長い坂です。 【千代田区のウェブサイトから引用】 半蔵門外から、国立劇場前を桜田堀に沿って警視庁わき辺りまで下る坂です。東京でも代表的な坂の一つで、景勝の地として知られています。国立劇場のある辺りに三宅備前守の上屋敷があったことから三宅坂と呼ばれました。また、昔は堀端に皀莢の木や橿の木が多く茂っていたので皀莢坂とか橿木坂と呼ばれたこともあるようです。 |