HOME > 千代田区の坂(4)番町方面
千代田区の坂(4) 〜 番町方面 【10坂】
各坂道の位置はこちら → 地図
永井坂 (ながいざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を永井坂といいます。坂下一体は三丁目谷ともいわれています。名称のおこりは旗本屋敷の名によるとされています。 嘉永四年(一八五一)の「東都番町大絵図」という切絵図をみますと、永井勘九郎、永井奥之助という旗本が道をはさんでちょうどむかいあっているようにみえます。 → 永井坂のページ |
|
袖摺坂 (そですりざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を袖摺坂といいます。むかし、この坂道は行きあう人の袖と袖がふれあうほどでせまいのでその名がついたといわれます。幅のせまい道をこのように名付けた例は他にも見られます。 → 袖摺坂のページ |
|
五味坂 (ごみざか) |
【標識の説明】 この坂の名称は、五味坂といいます。「ごみ」という名前から「芥坂」や「埃坂」の字をあてたり、その意味から「はきだめ坂」と呼んだり、さらに近くにあったという寺院の名から「光感寺坂」・「光威寺坂」と呼ばれ、さらに「光感寺坂」がなまって「甲賀坂」とも呼ばれています。「麹町区史」には「由来は詳らかでないが、光感寺が元とすれば甲賀は光感の転化らしく、ごみは埃ではなく五二が転化したものではないか」という内容の説明があります。つまり、坂の辺りは「五番町」で坂を登ると「上二番町」なので二つの町を結ぶ坂として五二坂と名前がつき、「五味坂」に変わったのではないかということです。ちなみに昭和一三年(1938)に実施された区画整理の結果、「五番町」と「上二番町」は現在では「一番町」に含まれています。 → 五味坂のページ |
|
御厩谷坂 (おんまやだにざか) |
【標識(千代田区教育委員会)の説明】 この坂を御厩谷坂といいます。「新撰東京名所図会」には「一番町と上六番町との間、すなわち井伊家邸前より南の方に係れり。厩谷もと御厩谷という。むかし徳川家の厩舎ありしに因り此名あり」と記されています。また、「新編江戸志に今も紅梅勘左衛門殿やしきに御馬の足洗いし池残りてあるなりというと見えたり」ともかかれています。 → 御厩谷坂のページ |
|
鍋割坂 (なべわりざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を鍋割坂といいいます。「新撰東京名所図会」には「堀端より元新道一番町の通りへ上る坂なり・」とかかれています。同じ名称の坂は各地にありますが、どれもふせた鍋(台地)を割ったような坂であることからその名がつけられています。千代田区隼町の国立劇場北側のところにも同じ名の坂があります。 説明中の「同じ名の坂」はこちら。 → 鍋割坂のページ |
|
南法眼坂 (みなみほうがんざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を南法眼坂といいます。この坂の北に法眼坂があるためにその名がつけられたのでしょう。坂の下は三丁目谷と呼ばれています。法眼の名は「紫の一本」に「斎藤法眼という人の屋敷この坂のきわにあり」とかかれています。法眼とは僧の階級の一つであり、また江戸時代、医師、絵師、連歌師などに授けた称号のことです。 → 南法眼坂のページ |
|
行人坂 (ぎょうにんざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を行人坂といいます。「東京名所図会」には「行人坂、上六番町と中六番町との間を南の方へ上る坂を称す」とかかれています。「御府内備考」に行人坂、古某法印と称する行人この辺に居するゆえにこの名あり。また法印坂とも呼び或は転化して法眼坂という」。もともと法眼坂を起伏により東郷坂、行人坂、南法眼坂と三つの名に分けてよんだものであり、法眼坂の名称だけの地図も多いようです。 → 行人坂のページ |
|
東郷坂 (とうごうざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を東郷坂といいます。東郷元帥の邸西側にあるこの坂は明治三八年(一九〇五)一〇月、当時の麹町区会の議決により命名されたといいます。むかしは東郷坂のところを法眼坂、それから南法眼坂につづいていたといいますがはっきりしていません。今は東郷坂、法眼坂(行人坂)、南法眼坂の三つの名に分かれていますが、古い地図をみると「法眼坂」のみかかれています。 → 東郷坂のページ |
|
三年坂 (さんねんざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を三年坂といいます。 「新撰東京名所図会」には「下六番町の方より土手三番町の中間を貫き土手際に降る坂をいう。三年坂は現今通称する所なるも三念寺坂を正しとす。むかし三念寺といえる寺地なりし因り此名あり。然るに俗間誤りて三年坂と称し、」とかかれています。 → 三年坂のページ |
|
新坂 (しんざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を新坂といいます。新しく作られた坂ということでしょう。江戸時代の地図をみますと、ここに道はなく、人々は東側の帯坂や西側の三年坂へ迂回しなければなりませんでした。しかし、明治二十三年(一八九〇)三月の「東京市区改正全図」には三等道路として、この道を通す計画が書き込まれています。大正元年(一九一二)の「東京市麹町区地籍地図」では、この道を地図上で確認できます。 → 新坂のページ |