HOME>千代田区の坂(3)平河町・麹町方面
千代田区の坂(3) 〜 平河町・麹町方面 【10坂】
各坂道の位置はこちら → 地図
富士見坂 (ふじみざか) |
【標識なし】 【千代田区のウェブサイトから引用】 永田町二丁目、衆参議院議長公邸の北側を赤坂見附の方に下る坂です。 『江戸鹿子』には「赤坂松平出羽守の屋舗の前なり、空はれたる折は、遥かに富士山見ゆ、よってしかいふ。」とあります。 → 富士見坂のページ |
|
諏訪坂 (すわざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を諏訪坂といいます。「新撰東京名所図会」には「北白川宮御門前より赤坂門の方へ下る坂を名く。もと諏訪氏の邸宅ありしを以てなり。」とかかれています。また、別の名を達磨坂ともいわれていますが、旧宮邸が紀州藩であり、その表門の柱にダルマににた木目があったため達磨門とよばれ、その門前を達磨門前、坂の名も達磨坂と人々は呼んだそうです。 → 諏訪坂のページ |
|
清水谷坂 (しみずだにざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を清水谷坂といいます。元禄四年(一六九一)の地図をみると、麹町通りから直接下る坂のようにみえますが、それ以後の地図は現地形とほぼ合っているようです。別の名シダニ坂とも シタン坂ともいわれるようですが、いずれも「清水谷」が変化したものとされています。坂下を南北に走る道筋が清水谷で、そこで喰違見附へと登る紀尾井坂につながっています。 → 清水谷坂のページ |
|
紀尾井坂 (きおいざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を紀尾井坂といいます。「新撰東京名所図会」には「喰遠より清水谷公園の方へ下る坂を稱ふ」また「紀尾井坂は紀伊家、尾張家、井伊家の三邸此所に鼎立し在りしを以て名つく」とかかれています。このあたりが紀尾井坂と呼ばれているのも左記の理由からです。また坂下が清水谷なので清水谷坂の別の名もあったといいます。 → 紀尾井坂のページ |
|
貝坂 (かいざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を貝坂といいます。 『江戸名所図会』には「この地は昔より甲州街道にして、その路傍にありし一里塚を土人・甲斐坂と呼びならわせしとなり。或る説に貝塚法印というが墓なりともいいてさだかならず」とかかれていますが、貝塚があったというのが定説となっています。 → 貝坂のページ |
|
中坂 (なかざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を中坂といいます。元禄四年(一六九一)の地図にはまだ道ができていませんが、宝永(一七○四)以降の図を見ると町屋ができ、現在の道路の形とほとんど違いがないことがわかります。中坂の名称についての由来ははっきりしませんが、中坂をはさんで北側に町屋、南側に武家が並んでいる形をみると、中坂の名称のおこりはあんがいこのへんにあるのかもしれません。 → 中坂のページ |
|
鍋割坂 (なべわりざか) |
【標識なし】 【千代田区のウェブサイトから引用】 隼町の国立劇場の北側を「内堀通り」から西に上り、ほぼ半ばからまた西に下る坂です。『御府内沿革図書』の図では、延宝元年の図には明示されていません。天保6年(1835)〜文久元年(1861)の各図には、堀側から平河天満宮のわきに向かって一直線に通じています。その後、町筋の変動によって現在のようになったと考えられます。坂の名の由来は、鍋を伏せたような台地につくられた切り通しなので、この名が起こったといわれています。 → 鍋割坂のページ |
|
善国寺坂 (ぜんこくじざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を善国寺坂といいます。『東京名所図会』には「善国寺坂、下二番町の間より善国寺谷に下る坂をいう。むかし此処の坂上に鎮護山善国寺にありしに因り名づく」とかかれています。善国寺は新宿とおりから北へ向って左側にありました。坂下のあたりは善国寺谷、また鈴降(振)谷とよんだといいます。 → 善国寺坂のページ |
|
正和坂 (しょうわざか) |
【標識なし】 【千代田区のウェブサイトから引用】 千代田麹町小学校の北側を一番町の境まで下る坂です。太平洋戦争中にこの地域に正和会という隣組があったことなどが坂の名の由来と関係があるかも知れません。なお、同小学校の東側の坂は正和新坂と呼ばれています。 → 正和坂のページ |
|
正和新坂 (しょうわしんざか) |
【標識なし】 正和坂の東側にある、正和坂に並行している坂道です。 → 正和新坂のページ |