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新宿区の坂(6) 〜 早稲田・戸山・若松町・新宿方面 【12坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

グランド坂 【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
戸塚球場(今の早大総合学術センター)のグランドから、六大学リーグ戦に向け練習に励む学生達の声が響いてくることからグランド坂と呼ばれるようになった。戸塚球場は昭和二四年、早大野球部育ての親、安部磯雄教授の逝去により安部球場と改称し、昭和六二年まで存続した。


写真は坂上から。左側に見える建物が早大総合学術センターです。

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八幡坂
(はちまんざか)
【標識(東京都設置)の説明】
坂名は穴八幡にちなんで八幡坂と名づけられたものである。この地は、もと高田と呼ばれ、穴八幡は高田八幡とも呼ばれていた。
 昔の道は急坂で、坂の下り口、上り口には、いわゆる「立ちん坊」が立ち、荷車の暴走を止める手助けをして、賃金をもらっていたと伝えられる。昭和三九年一二月、地下鉄早稲田駅が開業して、坂下の馬場下付近はにぎやかさを増した。


坂下の穴八幡(高田八幡)の脇を通る坂です。早稲田通りです。

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高田八幡男坂 【標識なし】

写真で、右に八幡坂、左手に高田八幡女坂があります。
高田八幡女坂 【標識なし】

上述の高田八幡男坂の左手にある坂です。
夏目坂
(なつめざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。


右の写真は坂下にある「夏目漱石誕生之地」の石碑と新宿区教育委員会設置の標識。



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下戸塚坂
(しもとつかざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
江戸時代、この地は武家屋敷などで占められ、町名はつけられず、この坂も無名坂であった。明治五年(一八七二)下戸塚町となったことにより、この坂も町名と同じ下戸塚坂と呼ばれるようになった。


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椎木坂
(しいのきざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
昔、戸山学校(現在の戸山ハイツ)の構内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、こう呼ばれるようになったという。また、古くはこのあたりが砂利取場であったところから、砂利坂とも呼ばれた。

大久保通りの脇を下り(写真右)、しばらく大久保通りと並行しながら、再び上り(写真下)大久保通りに戻る坂道です。


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団子坂
(だんござか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
昔、この辺り一帯が低湿地で、この坂はいつも泥んこで、歩くたびに泥だんごのようになったという。嘉永七年(一八五四)の『江戸切絵圖』には「馬ノ首ダンゴサカト云」とある。


都営地下鉄大江戸線若松河田駅の出口近くにあります。

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梯子坂
(はしござか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
『豊多摩群誌』には「梯子坂 久左衛門坂北方の裏道に在り、東へ登り十間許り、坂道急にして恰も梯子を登るが如し、故に名付く」とある。


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久左衛門坂
(きゅうざえもんざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
この坂は、徳川家康の江戸入府以前から大久保に居住していた島田家の草創久左衛門が新しく開いた坂道であったため、こう呼ばれるようになったという。


職安通りから少し入って下る坂です。

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不動坂
(ふどうざか)
大聖院、西向天神社の境内に北方から登る階段上の坂道です。

坂下にある手前の石柱に「不動坂」という文字が彫られています。


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山吹坂
(やまぶきざか)
【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】
この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」に因みこう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、道灌に山吹の一枝を捧げた娘である。


紅皿の碑」についてはたとえばこちらを。雨に遭った太田道灌に蓑を貸してほしいと求められた娘(紅皿)が「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」という古歌に託して山吹一枝のみを道灌に渡したことで知られています。

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