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夏目坂(なつめざか)
所在地: 新宿区喜久井町(坂下は馬場下町) → 地図
@ 坂下手前の早稲田通り早稲田駅前交差点から。 |
A 坂下から |
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B 同じく坂下から |
C 坂下部(Aから少し登った所)から見上げる。左に標識が見える。 |
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D 坂の中ほどから見下ろす。中央に標識が見える。 |
E 坂の中ほど(Dとほぼ同じ地点)から見上げる。左に標識が見える。 |
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F Eの道の反対側から見上げる。左に標識が見える。 |
G 坂上部から見下ろす。左に木製の標識が見える。 |
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H 坂上近くから見下ろす。左に小さく木製の標識が見える。 |
I 坂上から |
J 坂下にある「夏目坂通り」の標識 |
K 坂下にある「夏目漱石誕生之地」の碑。後ろに夏目漱石誕生の地の標識(新宿区教育委員会設置)もある。 |
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L 坂下にある標識(新宿区教育委員会設置) | M 坂中ほどにある標識(新宿区教育委員会設置) | N 坂上部にある木製の標識(新宿区教育委員会設置) |
【標識(写真LMのもの)】 説 明: 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがてこう呼ばれ地図にものるようになった。 設置者: 新宿区教育委員会 設置日: 平成十四年三月(坂下、写真L)、平成十三年三月(坂中ほど、写真M) |
【標識(写真Nのもの)】 説 明: 夏目漱石の随筆『硝子戸の中』(大正四年)によると、夏目坂は漱石の父でこの辺りの名主であった夏目小兵衛直克が、自分の姓を名づけて呼んでいたものが人々に広まり、やがて、こう呼ばれ地図にものるようになった。 設置者: 東京都新宿区教育委員会 設置日: 平成三年一月(坂上部、写真N) |
【この坂について】
早稲田通りの早稲田駅前交差点から、南に登る比較的緩やかな坂道です。この通りは坂名にちなんで「夏目坂通り」と呼ばれているようです。
標識は、坂下、坂中ほど、坂上部と3箇所に新宿区教育委員会設置のものが立っています(写真LMN)。この3つの標識はそれぞれ異なっています。坂上部のものは古い木製の角柱(写真N)です。坂下のもの(写真L)と坂中ほどのもの(写真M)は金属製の角柱ですが、設置時期が一年異なっているせいか、デザインが多少異なっています。
坂下には、写真Kにあるとおり、夏目漱石誕生の地に関する碑と標識があります。前方にある碑のほうには、正面に、
「夏目漱石誕生之地 遺弟子安倍能成書
夏目漱石は慶応三年(一八六七年)一月五日(陽暦二月九日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町一)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ明治の教育者・文豪として不滅の業績を残し大正五年(一九一六年)十二月九日新宿区早稲田南町七において没す生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ」
とあり、側面に、
「昭和四十一年二月九日 夏目漱石生誕百年記念 新宿区建立」
と彫られています。
また、後方の標識のほうには、
「新宿区指定史跡 夏目漱石誕生の地
所在地 新宿区喜久井町一番地
指定年月日 昭和六十一年十月三日
文豪夏目漱石(一八六七〜一九一六)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。
夏目家は牛込馬場下横町周辺の十一ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。
漱石は生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、二歳の十一月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、二十二歳のときに夏目家に復籍している。
なお、この地での幼少時代のことは大正四年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳述されている。
また、この記念碑は昭和四十一年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。
平成三年十一月
東京都新宿区教育委員会
と書かれています。
夏目漱石『硝子戸の中』では、夏目坂について、
「父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。」
と書かれています。
【写真撮影日】 2002年7月28日(ABCD)、2004年9月16日(@EFGHIJKLMN)
【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】 2004年9月17日(2010年9月10日一部修正)