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山吹坂(やまぶきざか)
所在地: 新宿区新宿六丁目(大聖院/西向天神社前) → 地図
@ 坂下から |
A 坂上から。左に標識が見える。 |
B 坂下から |
C 坂の中ほどから見上げる。坂上に標識が見える。 |
D Cを少し上った所から見上げる。後方に見える建物は大聖院。 |
E 坂上にある標識(新宿区教育委員会設置) |
F Eと同じ標識。後方に見えるのは西向天神社。 |
G 坂上脇にある西向天神社 |
H 坂上にある大聖院 |
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I 大聖院境内にある紅皿の碑 |
J 同じく紅皿の碑。右に見えるのは紅皿の碑についての標識(東京都新宿区教育委員会設置)。 |
【標 識】 説 明: この坂上の大聖院境内にある「紅皿の碑」に因みこう呼ばれるようになった。紅皿は太田道灌の山吹の里伝説で、道灌に山吹の一枝を捧げた娘である。 設置者: 東京都新宿区教育委員会 設置日: 平成三年九月 |
【この坂について】
新宿区六丁目にある大聖院と西向天神社(並んでいる)の境内に登る短い石段の坂道です。
標識は、坂上に東京都新宿区教育委員会設置のものが立っています(写真EF)。
標識に書かれている「紅皿の碑」は大聖院境内にあります(写真IJ)。紅皿の碑についてはたとえばこちらやこちらを参考に。雨に遭った太田道灌に蓑を貸してほしいと求められた娘(紅皿)が
「七重八重 花は咲けども山吹の みのひとつだに なきぞかなしき」
という古歌に託して山吹一枝のみを道灌に渡したことで知られています。
この話は、たとえば、江戸時代(18世紀)の備前岡山の藩士・湯浅常山の著『常山紀談』巻之一「太田持資歌道に志す事」に、
太田左衛門大夫持資は上杉定正の長臣なり。鷹狩に出て雨に逢ひ、ある小屋に入りて蓑を借らんといふに、若き女の何とも物をば言はずして、山吹の花一枝折りて出しければ、「花を求むるにあらず」とて怒りて帰りしに、これを聞きし人の、「それは七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきといふ古歌のこゝろなるべし」といふ。持資驚きてそれより歌に心を寄せけり。
と書かれているものです(出典こちら)。
【追記(2004年11月28日)】 「紅皿の碑」については、横にある標識(東京都新宿区教育委員会設置)には次のとおり書かれています。
史跡 紅皿の碑
所在地 新宿区新宿六丁目二十一番十一号
太田道灌の山吹の里伝説に登場する紅皿の墓であると伝えられる板碑である。
高さ一〇七センチ、幅五十四センチ、厚さ六センチで、中央部および下部に大きな欠損がありはっきりしないが、中央部に主尊を置き、四周に十二個の種子を配した十三仏板碑であったと推定される。
造立年代は不明であるが、十三仏板碑が盛んに造られた十五世紀後半であると思われる。
紅皿は、太田道灌が高田の里(現在の面影橋あたりとされる)へ鷹狩に来てにわかに雨にあい、近くの農家に雨具を借りようと立寄ったところ、その家の少女が庭の山吹の一枝をさし出して断った。
これが縁となり、道灌は紅皿を城にまねき歌の友とした。道灌の死後、紅皿は尼となって大久保に庵を建て、死後その地に葬られたという。
後年、芝居で演目とされたため、十二代守田勘弥らの寄進した石碑類が並んでいる。l
平成三年十一月 東京都新宿区教育委員会
【写真撮影日】 2003年4月26日(@ABCDEFG)、2004年11月27日(HIJ)
【この坂の本サイト掲載日】 2003年4月26日
【このページの作成日】 2004年9月24日 (2004年11月28日修正[写真追加、記述も一部追加]、2010年9月19日一部修正)