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千代田区の坂(5) 〜 九段方面 【10坂】
各坂道の位置はこちら → 地図
帯坂 (おびざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を帯坂といいます。名称は歌舞伎で有名な番町皿屋敷の旗本青山播磨の腰元お菊が髪をふり乱し帯を引きずってにげたという伝説によります。また一名切通し坂ともいわれたのは、寛永年間(一六二四〜一六四三)外堀普請の後に市ケ谷御門へ抜ける道として切り通されたのでその名がつけられたといいます。 → 帯坂のページ |
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一口坂 (いもあらいざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を一口坂といいます。「麹町区史」には「一口坂の一口は大坂のいもあらいと同じくイモアライと読むべきで、電車一口坂停留所から北へ九段電話局の前を新見附へ降る坂である」とかかれています。疱瘡をいもがさとかへもと呼んで疱瘡を洗う(治す)という意味として知られています。ただこの疱瘡に霊験あらたかな社がどの辺にあったのかということは不明です。 → 一口坂のページ |
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富士見坂 (ふじみざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を富士見坂といいます。同名の坂は各地にあり、千代田区にも3ヶ所をかぞえます。もともと富士見町という町名は富士山がよく見える台地につくられた町ということでしょう。むかしはこの坂から富士山の美しい姿が見えたことによりその名がつけられたということです。坂の下で一口坂と合流します。 → 富士見坂のページ |
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幽霊坂 (ゆうれいざか) |
【標識なし】 この3つの幽霊坂はすべて富士見2丁目にあります。 地図上の位置は、写真上から「幽霊坂a」、「幽霊坂b」、「幽霊坂c」で表示しています。 |
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幽霊坂 (ゆうれいざか) |
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幽霊坂 (ゆうれいざか) |
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二合半坂 (にごうはんざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂は二合半坂と呼ばれています。名前の由来は諸説あります。 『再校江戸砂子』という史料には、日光山が半分見えるためと書かれています。なぜ「日光山が半分見える」と『二合半』になるのでしょう。このことについて、『新撰東京名所図会』という史料での考えを紹介しましょう。 富士山は麓から頂上までを十分割して一合・二合・・・と数えますが、西側に見える富士山と比べると日光山はその半分の高さ(五合)に見え、その日光山がこの坂からは半分しか見えないので五合の半分で二合半になるという考えです。 この他に、あまりに急な坂であるため一合の酒を飲んでも二合半飲んだ時のように酔ってしまうからという説もあります。 → 二合半坂のページ |
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冬青木坂 (もちのきざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を冬青木坂といいます。「新編江戸志」には「此所を冬青木坂ということをいにしへ古ひたるもちの木ありしにより所の名と呼びしといえど、左にあらず此坂の傍に古今名の知れざる唐めきて年ふりたる常盤木ありとぞ。目にはもちの木と見まがえり。この樹、先きの丙午の災に焼けてふたたび枝葉をあらはせじとなん。今は磯野氏の屋敷の中にありて其記彼の家記に正しく記しありという」とかかれています。 → 冬青木坂のページ |
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中坂 (なかざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を中坂といいます。『御府内沿革図書』によると元禄三年頃(一六九〇)までは武家地となっており坂はできていませんが、元禄十年(一六九七)の図以降になると中坂が記載され、元禄十四年(一七〇一)以降の図には世継稲荷神社も見ることができます。なお、『新撰東京名所図会』には「中阪は、九段阪の北方に在り。もと飯田阪といへり。飯田喜兵衛の居住せし地なるに因れり中坂と称するは、冬青坂と九段坂の中間に在るを以てなり。むかし神田祭の山車等は、皆此阪より登り来れるを例とせり。」とかかれています。 → 中坂のページ |
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九段坂 (くだんざか) |
【標識(飯田橋通り商栄会・九段下さくら会設置。写真上に見える)の説明】 江戸のはじめに出来たもので坂の両側に古い飯田町があり飯田坂と呼ばれました。宝永の頃、この坂に沿って九段になった長屋をつくり、江戸城のお花畑の役人をおいたのが九段坂の起りです。坂は今よりずっと急な坂で途中には石段もあり、車の通行ができるようになったのは、明治の中頃からでした。そして大八車の後押しを生業とする押屋がたむろするようになりました。一回の押賃は一銭だったといいます。坂の上からは神田、日本橋、浅草、本所はもちろん、安房、上総の連山も眺められました。そして月の名所としても有名でした。 【標識(千代田区教育委員会設置。写真下に見える)の説明】 この坂を九段坂といいます。古くは飯田坂ともよびました。「新撰東京名所図会」には"九段坂は富士見町の通りより飯田町に下る長坂をいう。むかし、御用屋敷の長屋九段に立し故、これを九段長屋といいしより此坂をば九段坂といいしなり。今は斜めに平かなる坂となれるも、もとは石を以て横に階をなすこと九層にして且つ急峻なりし故車馬は通すことなかりし"とかかれています。坂上は観月の名所としても名高く、一月、七月二六日、夜待ちといって月の出を待つ風習があったといいます。 (注)道の反対側にも同じく千代田区教育委員会設置の標識があるが、説明文が微妙に異なります。 → 九段坂のページ |