HOME文京区の坂(7)西片・白山方面

文京区の坂(7) 〜 西片・白山方面 【12坂】

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薬師坂
[薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂]

(やくしざか、[やくしじざか、じょううんじざか、はくさんざか])
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱申候」(『御府内備考』)坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。
 『新撰東京名所図会』には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。
 このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保15年(1730)の大火後である。現存するものに無縁坂の講安寺本堂がある。

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浄心寺坂
(じょうしんじざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「小石川指ヶ谷町より白山前町を経て東の方、本郷駒込東片町へ登る坂あり。浄心寺坂といふ」(新撰東京名所図会)
 浄心寺近くの坂なので、この名がついた。また坂下に「八百屋於七」の墓所円乗寺があることから
「於七坂」の別名もある。

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中坂
(なかざか)
【標識なし】

浄心寺坂と胸突坂の間にある坂です(このため「中坂」と呼ばれるようになったと言われています)。

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胸突坂[峰月坂・新道坂]
(むなつきざか[みねつきざか・しんみちざか])
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「丸山新町と駒込西片町の界にある坂を胸突坂といふ。坂道急峻なり、因って此名を得、左右石垣にて、苔滑か」と『新撰名所図会』にある。
 台地の中腹から、本郷台地に上る坂、坂上から白山通りをへだてて、白山台を望む。「胸突坂」とは急な坂道の呼び名で区内に三ヶ所ある。
 この坂のすぐ南の旧西片町一帯は、福山藩の中屋敷跡で「誠之館」と名づけた江戸の藩校があったところである。

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曙坂
(あけぼのざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
『江戸砂子』によれば、今の白山、東洋大学の北西は、里俗に鶏声ヶ窪といわれるところであった。明治2年(1869)に町ができて、鶏声暁にときを告げるところから、あけぼの(暁と同じ)を取り町名とした。この坂の場所と、旧曙町、鶏声ヶ窪とは少し離れているが、新鮮で、縁起の良い名称を坂名としたのであろう。
 この坂は西片と白山を結び、人びとの通学や生活に利用されてきた。昭和22年(1947)には旧丸山福山町・曙会の尽力により石段坂に改修された。

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新坂[福山坂]
(しんざか[ふくやまざか])
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
『新撰東京名所図会』に、「町内(旧駒込西片町)より西の方、小石川掃除町に下る坂あり、新坂といふ」とある。この坂上の台地にあった旧福山藩主の阿部屋敷に通じる、新しく開かれた坂ということで、この名がつけられた。また、福山藩ににちなんで、福山坂ともいわれた。新坂と呼ばれる坂は区内に六つある。
 坂の上一帯は学者町といわれ、夏目漱石をはじめ多くの文人が住んだ。西側の崖下一帯が、旧丸山福山町で、樋口一葉の終焉の地でもある。

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石坂
(いしざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「町内より南の方、本郷四町に下る坂あり、石坂とよぶ・・・」。『新撰東京名所図会』
 この坂の台地一帯は、備後福山藩(11万石)の中屋敷を幕府の御徒組、御先手組の屋敷であった。
 明治以降、東京大学が近い関係で多くの学者、文人が居住した。田口卯吉(経済学者・史論家)、坪井正五郎(考古学、人類学者)、木下杢太郎(詩人・評論家・医者)、上田敏(翻訳者・詩人)、夏目漱石(小説家)、佐佐木信綱(歌人・国学者)、和辻哲郎(倫理学者)など有名人が多い。そのため西片町は学者町といわれた。
  − 西片町の景 −
  交番の上にさしおほう桜さきけり
     子どもらは遊ぶ おまわりさんと (佐佐木信綱)

伊賀坂
(いがざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
白山台地から白山通りに下る坂で、道幅は狭く、昔のままの姿を思わせる。この坂は武家屋敷にちなむ坂名の一つである。
 伊賀者の同心衆の組屋敷があった(『御府内備考』)とか、真田伊賀守屋敷があった(『改撰江戸志』)という二つの説がある。
 『東京名所図会』では真田伊賀守説をとっている。伊賀者は甲賀者と共に、大名統制のための忍者としてよく知られている。


曲がりくねった道です。
蓮華寺坂
(れんげじざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「蓮華寺即ち蓮花寺といへる法華宗の傍なる坂なればかくいえり。白山御殿跡より指ヶ谷町へ出る坂なり」と改撰江戸志にある。
 蓮華寺は、天正15年(1587)高橋図書を開基、安立院日雄を開山として創開した寺院で明治維新までは、塔頭が六院あったという。
 なお、この坂道は小石川植物園脇の御殿坂へ通じ、昭和58年(1983)にハナミズキやツツジが植栽され、春の開花、秋の紅葉が美しい並木道である。


この坂の左手に現在でも蓮華寺があります。
逸見坂
(へんみざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「白山神社裏門の南、小石川御殿町と指ヶ谷の間より南へ御殿町へ上る坂あり、逸見坂といふ、旧幕士逸見某の邸、坂際にありしより此名に呼ぶなり」(『東京名所図会』)
 武家屋敷にちなむ坂名である。このあたり「旧白山御殿町」で、逸見坂はその北のはずれにあたる。
 町名の由来は、白山御殿(後に五代将軍になった館林候綱吉の屋敷)からきている。
 御殿廃止後、幕府の薬園(現在の小石川植物園)となる。
 坂の西側の「本念寺」には蜀山人(太田南畝)の墓がある。
暗闇坂
(くらやみざか)
【標識なし】
御殿坂[大坂・富士見坂]
(ごてんざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「御殿坂は戸崎町より白山の方へのぼる坂なり。この上に白山御殿ありし故にこの名遺れり、むかしは大坂といひしや」(『改撰江戸志』)
 「享保の頃、此坂の向ふに富士峰能く見えし故に、富士見坂ともいえり」(『江戸志』)
 白山御殿は、五代将軍徳川綱吉が将軍就任以前、館林候時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので、白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた。
 綱吉の将軍職就任後、御殿跡は幕府の薬園となった。享保七年(1722)園内に”赤ひげ”で有名な小石川養生所が設けられた。また同20年には、青木昆陽が甘藷の試作をした。
 明治になってからは東京大学の付属植物園となった。
  植物園の松の花さへさくものを
   離れてひとり棲むよみやこに  若山牧水(1885-1928)


写真で坂の左側の塀の向うは小石川植物園です。

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