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文京区の坂(4) 〜 本郷方面(その2) 【9坂】
各坂道の位置はこちら → 地図
なお、ここに掲げた各坂(の一部)は、この地域にある文京区文京ふるさと歴史館「本郷界隈史跡ガイドマップ」に地図付きで紹介されています。標識とは一味違った説明が書かれています。
鐙坂 (あぶみざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 本郷台地から菊坂の狭い谷に向かって下り、先端が右にゆるく曲がっている坂である。名前の由来は、「鐙の製作者の子孫が住んでいたから」(『江戸志』)とか、その形が「鐙に似ている」ということから名付けられた(『改選江戸志』)などといわれている。 この坂の上の西側一帯は上州高崎藩主大河内家松平右京亮の中屋敷で、その跡地は右京山と呼ばれた。 → 鐙坂のページ |
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炭団坂 (たどんざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 本郷台地から菊坂の谷へと下る急な坂である。名前の由来は「ここは炭団などを商売にする者が多かった」とか「切り立った急な坂で転び落ちた者がいた」ということからつけられたといわれている。 台地の北側の斜面を下る坂のためにじめじめしていた。今のように階段や手すりがないことは、特に雨上がりには炭団のように転び落ち泥だらけになってしまったことであろう。 この坂を上りつめた右側の崖の上に、坪内逍遥が明治17年(1884)から20年(1887)まで住み、「小説神髄」や「当世書生気質」を発表した。 → 炭団坂のページ |
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本妙寺坂 (ほんみょうじざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 この坂は、本郷の台地から菊坂へ下っている坂である。菊坂をはさんで真向かいの台地には(現在の本郷5-16あたり)かつて本妙寺という法華宗の寺があった。境内が広い大きな寺で、この寺に向かって下るであったところから「本妙寺坂」と呼ばれた。 本妙寺は明暦の大火(振袖火事・明暦3年ー1657)の火元として有名である。明治43年豊島区巣鴨5丁目に移転した。 写真左で手前を下るのが本妙寺坂です。下ったところの交差点で菊坂と交差しており、その向こう側に見える坂の上に本妙寺があったようです。 |
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見送り坂・見返り坂 | 【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 「むかし太田道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ。その頃追放の者など此処より放せしと・・・・・・いずれのころにかありし、此辺にて大きなる石を堀出せり、是なんかの別れの橋なりしといひ伝へり・・・・・・太田道灌(1432〜86)の頃在任など此所よりおひはなせしかは、ここよりおのがままに別るるの橋といへる儀なりや」と『改撰江戸志』にある。 この前方の本郷通りはややへんこんでいる。むかし、加賀屋敷(現東大構内)から小川が流れ、菊坂の谷にそそいでいた、『新撰東京名所図会』(明治40年刊)には、「勧業場本郷館(注・現文京センター)の辺は、地層やや低く、弓形にへこみを印す、其くぼめる所、一条の小渠、上に橋を架し、別れの橋といひきとぞ」とある。 江戸を追放された者が、この別れの橋で放たれ、南側の坂(本郷3丁目寄)で、親類縁者が涙で見送ったから見送り坂。追放された人がふりかえりながら去ったから見返り坂といわれた。 今雑踏の本郷通りに立って500年の歴史の重みを感じる。 左の写真は、南側の見送り坂の坂上から北側(見返り坂)方向を写したもの。北方向に緩やかな上り坂になっているのはわかると思いますが、手前の見送り坂は緩やかである上に非常に短く写真ではよく分からないかもしれません。見返り坂・見送り坂の間はくぼみにはなっています。 |
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菊坂 (きくざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 「此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多居住仕候に付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由」(『御府内備考』)とあることから、坂名の由来は明確である。 今は、本郷通りの文京センターの西横から、旧田町、西片1丁目の台地の下までの長い坂を菊坂といっている。 また、その坂名から樋口一葉が思い出される。一葉が父の死後、母と妹の三人家族の戸主として、菊坂下通りに移り住んだのは、明治23年(1890)であった。今も一葉が使った堀抜き井戸が残っている。 寝覚めせしよはの枕に音たてて なみたもよほす初時雨かな 樋口夏子(一葉) 長い坂道ですが、傾斜は全体的に非常に緩やかです。 |
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梨木坂 [梨坂] (なしのきざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 「梨木坂は菊坂より丸山通りなり。むかし大木の梨ありし故坂の名とす。」と『御府内備考』にある。また、『南向茶話』には、「戸田茂睡(江戸前期の歌学者、『紫の一本』の著者、1629〜1706)という人が、この坂のあたりに住んでおり、梨本と称した」とある。 いっぽう、江戸時代のおわり頃、この周辺は、菊の栽培が盛んで、菊畑がひろがっていたが、この坂のあたりから菊畑がなくなるので、「菊なし坂」といったという説もある。 戦前まで、この近くに古いたたずまいの学生下宿が数多くあった。 → 梨木坂のページ |
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胸突坂 (むなつきざか) |
【標識なし】 → 胸突坂のページ |
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新坂 (しんざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 区内にある新坂と呼ばれる六つの坂の一つ。『御府内備考』に、「映世神社々領を南西に通ずる一路あり、其窮る所、坂あり、谷に下る、新坂といふ」とある。名前は新坂だが、江戸時代にひらかれた古い坂である。 このあたりは、もと森川町と呼ばれ、金田一京助の世話で、石川啄木が、一時移り住んだ蓋平館別荘(現太栄館)をはじめ、高等下宿が多く、二葉亭四迷、尾崎紅葉、徳田秋声など、文人が多く住んだ。この坂は、文人の逍遥の道でもあったと思われる。 → 新坂のページ |