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文京区の坂(3) 〜 本郷方面(その1) 【10坂】

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油坂
[揚場坂]

(あぶらざか[あげばざか])
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
この坂は、油坂または揚場坂と呼ばれている。坂の左側は本郷給水所公苑である。『油坂、元町1丁目と東竹町辺の間を南に下る坂あり、油坂と呼ぶ』(新撰東京名所図会)とあるが、その名の起りは不明である。
 この坂は別名『揚場坂』といわれているが、その意味は神田川の堀端に舟をつけて、荷物の揚げおろしをするため、町内地主方が、お上に願って場所を借りた荷あげ場であった。この荷揚場所に通ずる坂位置を揚場坂道と呼んだのがのちに『揚場坂』と言われるようになった。
 『揚場坂と申し、里俗に近辺には無御座候得共、町内、持揚場御茶ノ水河岸内に有之候に付、右揚場坂道を他所の者、揚場坂と唱候儀も有之趣に御座候』(御府内備考より)


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富士見坂
(ふじみざか)
【標識なし】

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建部坂
[初音坂]
(たけべざか
[はつねざか])
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
『新撰東京江戸名所図会』に「富士見坂の北(注・西)にある坂建部坂といふ。幕士建部氏の邸地あり因て此名に呼び做せり」とある。嘉永3年(1850)の『江戸切絵図』で近江屋坂を見ると、建部坂の上り口西側一帯(現在の元町公園)に建部氏の屋敷が見える。直参、千四百石で、八百八十坪(約2900u)であった。
 『御府内備考』に次のような記事がある。建部六右衛門様御屋敷は、河岸通りまであり、河岸の方はがけになっている。がけ下は庭で土地が高く、見晴らしが良い。がけ一帯にやぶが茂り、年々鶯の初音早く、年によっては十二月の内でも鳴くので、自然と初音の森といわれるようになった。明和9年(1772)丸山菊坂より出火の節、やぶが焼けてしまったが、今でも初音の森といっている。初音の森の近くで、一名初音坂ともいわれた。

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お茶の水坂
(おちゃのみずざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
この神田川の外堀工事は元和年間(1615-1626)に行われた。それ以前に、ここにあった高林寺(現向丘二丁目)の境内に湧き水があり“お茶の水”として将軍に献上したことから、「お茶の水」の地名がおこった。
 『御府内備考』によれば「御茶ノ水は聖堂の西にあり、この井名水にして御茶ノ水に召し上げられしと・・・」とある。
 この坂は神田川(仙台堀)に沿って、お茶の水の上の坂で「お茶の水坂」という。坂の下の神田川に、かって神田上水の大樋(水道橋)が懸けられていたが、明治34年(1901)取りはずされた。
    お茶の水橋低きに見ゆる水のいろ
     寒む夜はふけてわれは行くなり
            島木赤彦(1876-1926)

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忠弥坂
(ちゅうやざか)
【標識(東京都文京区教育委員会設置)の説明】
坂の上あたりに丸橋忠弥の槍の道場があって、忠弥が慶安事件で捕えられた場所にも近いということで、この名がつけられた。
 道場のあった場所については諸説がある。
 “慶安事件”は、忠弥が由井正雪とともに、慶安4年(1651)江戸幕府の転覆を企てて失敗におわった当時の一大事件であった。
 忠弥の名は、浄瑠璃や歌舞伎の登場人物としても有名である。


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壱岐坂
(いきざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「壱岐坂は御弓町へのぼる坂なり。彦坂壱岐守屋敷ありしゆへの名なりといふ。按に元和年中(1615〜1623)のほんごうの図を見るに、此の坂の右の方に小笠原壱岐守下屋敷ありて吉祥寺に隣れり。おそらくは此小笠原よりおこりし名なるべし。」(改撰江戸志)
 御弓町については「慶長・元和の頃御弓同心組屋敷となる。」とある。(旧事茗話)

坂を下ると新壱岐坂の広い道路にぶつかりますが、もともと壱岐坂は現在の新壱岐坂を横切るような方向へ下っていたとのこと。
新壱岐坂
(しんいきざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
 大正12年(1923)の関東大震災の復興計画によって、新しくひらかれた昭和の坂である。
 この坂の中ほどにある東洋女子短期大学のわきで、この坂と斜めに交差している細い坂道がある。「壱岐(殿)坂」という壱岐坂の水道橋寄りに小笠原壱岐守の下屋敷があったので、この名がついたといわれる。江戸時代からあった古い坂である。
 ながい歴史のある壱岐(殿)坂の名をとって、この坂を“新壱岐坂”とした。現在は、区内の幹線道路としてひろく知られているが、もとになった壱岐(殿)坂の名は忘れられようとしている。
新坂
[外記坂]

(しんざか[げきざか])
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
区内には、新坂と呼ばれる坂が六つある。『東京案内』に、「壱岐坂の北にありて小石川春日町に下るを新坂といふ」とある。『江戸切絵図』(嘉永6年尾張屋清七坂)いよると、坂上北側に内藤外記という旗本の大きな屋敷があり、ゲキサカとある。新坂というが、江戸時代からあった古い坂である。
 この坂の一帯は、もと御弓町、その後、弓町と呼ばれ、慶長・元和の頃(1600年ごろ)御弓町の与力同心六組の屋敷がおかれ、的場で弓の稽古が行われた。明治の頃、石川啄木、斎藤緑雨、内藤鳴雪などの文人が住んだ


→ 新坂[外記坂]のページ
旧東富坂
(きゅうひがしとみさか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
むかし、文京区役所があるあたりの低地を二ヶ谷といい、この谷をはさんで、東西に二つの急な坂道があった。
 東の坂は、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくるので、
「鳶坂」といい、いつの頃からか、「富坂」と呼ぶようになった。(『御府内備考』による)富む坂、庶民の願いがうかがえる呼び名である。
 また、二ヶ谷を飛び越えて向き合っている坂ということから
「飛び坂」ともいわれた。明治41年、本郷3丁目から伝通院まで開通した路面電車の通り道として、現在の東富坂(真砂坂)が開かれた。それまでは、区内通行の大切な道路の一つであった。

写真で、坂の左側は丸の内線がお茶の水駅方面から丁度地上に出てくるところになります。坂はこの丸の内線の線路に沿っています。
東富坂
[真砂坂]

(ひがしとみさか[まさござか])
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
本来の「東富坂」は、この坂の南を通る地下鉄丸の内線に沿った狭い急坂である。現在は、「旧東富坂」と呼んでいる。もともとの坂は江戸の頃、木が生い繁り、鳶がたくさん集まってくることから
「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」と呼ぶようになったという。
 現在の東富坂は、本郷3丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂道である。この市電は、1908年(明治41年)4月11日に開通した。現在、文京区役所をはさんで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」と呼び区別している。