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北区の坂(2) 〜 上中里・西ヶ原方面 【6坂+番外1】
各坂道の位置はこちら → 地図
大炊介坂 (おおいのすけざか) |
【標識(東京都設置)の説明】 坂の名は、この辺りに住んでいた中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮坂とも、樹木に覆われていたので暗闇坂とも呼ばれていた。 この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。 この辺りに江戸時代には牡丹園が設けられたこともあった。 → 大炊介坂のページ |
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蝉坂 (せみざか) |
【標識(北区教育委員会設置)の説明】 六阿弥陀堂の途上でもある蝉坂という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編纂した地誌『新編武蔵風土記』上中里村の項に「平塚明神ノ傍ニアリ、登リ三・四十間」とあり、このあたりから平塚神社の参道に沿って約五十四mから七十二m余を登る坂道だとあります。坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀堂第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。明治時代初期の『東京府志料』では「或云、攻坂ノ轉訛ナリト」と室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和十八年七月、昔の坂を拡幅して出来た道です。 → 蝉坂のページ |
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熊野坂 (くまのざか) |
【標識(北区教育委員会設置)の説明】 この坂は、谷田川通りから西ヶ原三ー三〇の不動院墓地までの坂で、名称は昔、不動院境内にあった熊野神社に由来します。江戸時代の地図によれば、当時の不動院の境内はこの坂に面していて、その北の隅に宝永(一七〇四ー一一)年間にまつられたという熊野神社が描かれています。つきあたりの道は鎌倉道といわれ、本郷台地から推定豊島郡衙跡に至るので鎌倉時代以前の道とも考えられます。 → 熊野坂のページ |
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道音坂 (どういんざか) |
【標識(北区教育委員会設置)の説明】 道音坂は、西ヶ原四ー二九ー一地先から滝野川一ー三二ー六地先まで続く坂道で、旧西ヶ原・滝野川の村境に沿った坂道でした。明治時代の『東京府村誌』い「坂名ハ道音塚アルニ由ル」とあり、江戸時代の地誌には西ヶ原村内「滝野川地ニアリ」と塚について記されています。道は浅草道と呼ばれ、本郷と上野の二つの台地を結ぶ道で、中世は鎌倉街道だったと伝えられる古道です。 → 道音坂のページ |
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牛蒡坂 (ごぼうざか) |
【標識なし】 → 牛蒡坂のページ |
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下瀬坂 (しもせざか) |
【標識(北区教育委員会設置)の説明】 国立東京外国語大学の南側に沿って上る坂。坂名は、明治時代に現在の大学の位置に設けられてた海軍下瀬火薬製造所」に由来する。ここには、江戸時代に幕府の薬園があった。現在のグラウンドは、昔の池で、谷田川の水源となっていた。 → 下瀬坂のページ |
<番外>
モチ坂 |
【標識(北区教育委員会設置)の説明】 ここは坂の坂上に位置し、崕雪頽(がけなだれ)という急斜面を蛇行して下る坂道の跡がわずかに残されている場所です。坂は上駒込村から上尾久村方面へと向う上尾久村道の途中に位置していました。鉄道が通るようになると坂下には踏切が造られ、大正時代の末から昭和の初期には跨線橋がつくられるにいたりました。モチの木が坂上にあったといわれ、明治十年代の『東京府誌・村誌』にはモチ坂とありますが、この名称は後にはあまり使われなくなっていったようです。 写真右側の柵の向うはJR京浜東北線の線路が下にあるガケになっていますが、どこに「(標識の説明にあるような)坂道(の跡)」があるのか全くわかりません。ただ、一応、写真のような北区教育委員会設置の標識があるので「番外」扱い。坂道の総数にはカウントしません。 |