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千代田区の坂(7) 〜 神田駿河台方面(その2) 【8坂】
このページ(その2)は神田駿河台において明大通りの東側にある坂を集めてます。明大通りの西側の坂(その1)はこちら。 西側の坂(その1)と同じく、この地域における一部の坂には、昭和50年1月に駿河台西町会の人が設置した、坂名を刻んだ小ぶりの石が片隅に置かれています。これまで私が見つけたのは、この地域では、雁木坂、仲坂(池田坂)です。 |
各坂道の位置はこちら → 地図
観音坂 (かんのんざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を観音坂といいます。『東京名所図会』には、新編江戸志に、観音坂は埃坂の並び、むかし、茅浦観音寺やしきありし故に名づくなりと見ゆ。此の坂の上観音院という称する仏刹ありしことは寛永の古図を見ても知らるべし、新編江戸志に観音寺とあるは観音院の誤りなるべし''とかかれています。しかし、延宝(一六七三〜八〇)、元禄(一六八八)の古図には、このあたりに「芦浦観音寺」が見え、名の起こりは観音寺または観音院によるといえます。 → 観音坂のページへ |
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新坂 (しんざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を新坂といいます。「東京名所図会」には“新坂は維新の後、新たに開かれたる道路なり、昔は観音坂と紅梅坂の間、阿部主計頭の屋敷にして、此処より駿河台に登る通路なかりし、崖の上には今も旧形を存せる彼の練塀の外囲ありしなり、此の練塀を道幅だけ取毀ちて道路を開きたり。ゆえに俗呼んで新坂といへり”とかかれています。維新の後とのみかかれその年月は不明です。 → 新坂のページ |
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幽霊坂 (ゆうれいざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を幽霊坂といいます。もとは紅梅坂と続いていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。「東京名所図会」には、「紅梅坂は」「往時樹木陰鬱にして、昼尚凄寂たりしを以って俗に幽霊坂と唱えたりしを、今は改めて紅梅坂と称す」とかかれています。また古くは光感寺坂とも埃坂などとも呼ばれていたこともあるようですが、一般には幽霊坂の名でとおっています。 → 幽霊坂のページ |
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淡路坂 (あわじざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を淡路坂といいます。この坂には相生坂、大坂、一口坂などの名称がつけられています。この坂の上に太田姫稲荷、道をはさんで鈴木淡路守の屋敷があり、それにもとづき町名、坂名がついたといわれます。 一口坂については太田姫稲荷が通称一口稲荷といったためとされています。大坂はもちろん大きな坂という意味でしょう。 坂の写真右手はJR中央線の線路になります。坂を上ったところはJR御茶ノ水駅前です。 → 淡路坂のページ |
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紅梅坂 (こうばいざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を紅梅坂といいます。このあたりは紅梅町とよんでいたのでこの名がつきました。淡路町に下る幽霊坂とつながっていましたが、大正一三年(一九二四)の区画整理の際、本郷通りができたため二つに分かれた坂になりました。「東京名所図会」、「東紅梅町の中間より淡路町二丁目に下る坂あり、もと埃坂と唱えしに、維新以後、淡路町の幽霊坂と併せて紅梅坂と改称せり」とかかれています。 写真左で、坂の左側はニコライ堂です。 → 紅梅坂のページ 紅梅坂とその横のニコライ堂です。 |
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雁木坂 (がんぎざか) |
【標識(千代田区教育委員会設置)の説明】 この坂を雁木坂といいます。今はその面影はありませんが、昔は急な坂で雁木がくまれていたといいます。雁木とは木材をはしご状または階段状に組んで登りやすくしたもので、登山道などに見られます。『新撰東京名所図会』には「駿河台西紅梅町と北甲賀町の間を袋町の方に行く坂を雁木坂と称す。慶応年間の江戸切絵図をみるに、今の杏雲堂病院の前あたりに「ガンキ木サカ」としるされたり」と書かれています。 → 雁木坂のページ |
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池田坂 (いけだざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を池田坂といいます。「東京名所図会」には「池田坂は北甲賀町の中央にあり。駿河台より小川町に通ずる坂路なり。その昔、坂の際に池田氏の邸宅ありしより以って名とす。一名唐犬坂というこそ」。「新編江戸志」には「唐犬坂とありて、むかし池田市之丞屋敷に唐犬ありし故坂名とす」とかかれています。元禄(一六八八〜一七〇三)の図には「池田市之丞」、文化(一八〇四〜一八一七)の図には「池田吉十郎」という旗本の名がみえます。 → 池田坂のページ 坂下付近にある町会設置の石製の標識。坂名が「お茶の水 仲坂」と彫られています。 |
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甲賀坂 (こうがざか) |
【標識(千代田区設置)の説明】 この坂を甲賀坂といいます。「東京名所図会」には「南北甲賀町の間に坂あり、甲賀坂という。甲賀の名称の起源とするところは往昔、甲賀組の者多く居住せし故とも、又光感寺の旧地をも記されるが云々」とかかれています。どちらにしてもこのあたり甲賀町と呼ばれていたことから名がつけられました。甲賀町の名は、昭和八年(一九三三)から駿河台一、三丁目となりました。 → 甲賀坂のページ |