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文京区の坂(12) 〜 目白台方面 【9坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

三丁目坂
(さんちょうめざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
旧音羽三丁目から、西の方目白台に上る坂ということで三丁目坂とよばれた。
 坂下の高速道路5号線の下には、かつて弦巻川が流れていて、三丁目橋(雑三橋)がかかっていた。
 音羽町は江戸自体の奥女中音羽の屋敷地で、『新撰東京名所図会』は、「元禄12年護国寺の領となり町家を起せしに、享保8年之を廃し、又徳川氏より町家を再建し、その家作を奥女中音羽といへるものに与へしより町名となれり。」と記している。

胸突坂
(むなつきざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永清文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので、別名
「水神坂」ともいわれる、東は関口芭蕉庵である。
 坂がけわしく、自分の胸を突くようにしなければ上れないことから、急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。
  ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人びとの苦労がしのばれる


→ 胸突坂のページ

幽霊坂
(ゆうれいざか)
【標識なし】

幽霊坂はこの地域には2つありますが、そのうちの一つで、目白台1丁目にあります。国家公務員運動場(写真左側)と和敬塾(男子学生のための寮:写真右側)の間にあります。昼でも暗く、薄気味悪い坂道でした。おそらく幽霊でも出そうだということで付けられた俗称でしょう。
薬罐坂
[夜寒坂]

(やかんざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
江戸時代、坂の東側は松平出羽守の広い下屋敷であったが、維新後上地され国の所有となった。現在の筑波大学付属盲学校一帯にあたる。また、西側には広い矢場があった。当時は大名屋敷と矢場に挟まれた淋しい所であったと思われる。
  やかん坂のやかんとは、野カンとも射干とも書く。犬や狐のことをいう。野犬や狐の出るような淋しい坂道であったのであろう。また、薬罐のような化物が転がり出た、とのうわさから、薬罐坂と呼んだ。夜寒坂のおこりは、この地が「夜さむの里道」と、風雅な呼び方もされていたことによる。
  この坂を挟んで、東西に大町桂月(1869〜1925、評論家、随筆家)と、窪田空穂(1877〜1967、歌人、国文学者)が住んでいた。
  この道を行きつつみやる谷こえて
     蒼くけぶる護国寺の屋根    (窪田空穂)
 
清戸坂
[清土坂]

(きよとざか[せいどざか])
【標識(東京都設置)の説明】
目白台上の目白通りは、江戸清戸道といった。中清戸(現清瀬市内)に御鷹場御殿があり、将軍が鷹狩に通う道が造られた。これが清戸道である。
 この清戸道から護国寺に下るわき道が清戸坂で、清戸道へ上る坂ということで坂名がつけられた。
  坂道の北側に、雑司谷清土村があったので、清土坂とも呼ばれた。

【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
 延宝4年(1676年), 御三家 尾張徳川家の御鷹場が、中清戸(現清瀬市) につくられた。 将軍もしばしば出かけて鷹狩りを行った。 これが現在の目白通りである。
 首都高速道路(5号線)護国寺出入口(護国寺側)から 目白通りに向っての広い道は、昔から“清戸道に登る坂”ということで『清戸坂』といわれた。
 江戸時代, この坂の北側一帯は、雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地)で、坂の道に沿って雑司ヶ谷清土村百姓町があった。
 明治10年代から坂の北側には牧場と牧舎が建ち、平田牧場と言った。 牛乳を売る小売店があり、人々が休憩した。 旗竿には、『官許の牛の乳』と假名と、ローマ字で書かれていたという。

→ 清戸坂のページ


東京都設置と文京区教育委員会設置の2種類の標識がある坂道です。
幽霊坂
(ゆうれいざか)
【標識なし】

→ 幽霊坂のページ

こちらは目白台2丁目にある幽霊坂です。
写真において、左の塀の向うは日本女子大学です。
豊坂
(とよさか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
坂の名は、坂下に豊川稲荷社があるところから名づけられた。江戸期この一帯は、大岡主膳正の下屋敷で、明治になって開発された坂である。坂を下ると神田川にかかる豊橋があり、坂を上ると日本女子大学前に出る。
 目白台に住んだ大町桂月は『東京遊行記』に明治末期このあたりの路上風景を次のように述べている。
 「目白台に上れば、女子大学校程近し、さきに早稲田大学の辺りを通りける時、路上の行人はほとんど皆男の学生なりしが、ここでは海老茶袴をつけたる女学生ぞろぞろ来るをみるにつけ、云々」
 坂下の神田川は井之頭池に源を発し、途中、善福寺川、妙正寺川を合わせて、流量を増し、区の南辺を経て、隅田川に注いでいる。江戸時代、今の大滝橋のあたりに大洗堰を築いて分水し、小日向台地の下を素堀で通し、江戸市民の飲料水とした。これが神田上水である。


→ 豊坂のページ

小布施坂
(こぶせざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
江戸時代、鳥羽藩主稲垣摂津守の下屋敷と、その西にあった岩槻藩主大岡主膳正の下屋敷の境の野良道を、宝暦11年(1761)に新道として開いた。その道がこの坂である。
 坂の名は、明治時代に株式の仲買で財をなした小布施新三郎という人の屋敷がこのあたり一帯にあったので、この人の名がとられた。古い坂であるが、その名は明治のものである。
日無坂
(ひなしざか)
【標識なし】
日無坂は豊島区との境界になります。坂上は富士見坂(豊島区)と交わります(写真下。左に下る道が日無坂、右の舗装された下り坂が富士見坂)