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文京区の坂(9) 〜 春日方面 【6坂】
各坂道の位置はこちら → 地図(愛宕坂は除く)
愛宕坂 (あたござか) |
【標識の説明】 京都愛宕山の坂にならって造られたもので四十七段の石段からなっている。 小石川後楽園内にある坂です。柵があって坂の上り下りはできません。 → 愛宕坂のページ |
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牛坂 (うしざか) |
【標識の説明】 北野神社(牛天神)の北側の坂で、古くは潮見坂・蛎殻坂・鮫干坂など海に関連する坂名でも呼ばれていた。中世は、今の大曲あたりまで入江であったと考えられる。 牛坂とは、牛天神の境内に牛石と呼ばれる大石があり、それが坂名の由来となったといわれる。(牛石はもと牛坂下にあった) 『江戸志』に、源頼朝の東国経営のとき、小石川の入江に舟をとめ、老松につないでなぎを待つ。その間、夢に菅中(菅原道真)が、牛に乗り衣冠を正して現われ、ふしぎなお告げをした。夢さめると牛に似た石があった。牛石これなりとある。 坂上にある北野神社(牛天神) |
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安藤坂 (あんどうざか) |
【標識の説明】 この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、1909年(明治42)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。 坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。 古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網坂」ともよばれた。 |
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金剛寺坂 (こんごうじざか) |
【標識(東京都文京区教育委員会設置)の説明】 江戸時代、この坂の西側、金富小学校寄りに金剛寺という禅寺があった。 この寺のわきにある坂道なので、この名がついた。小石川台地から、神田上水が流れていた水道通り(巻石通り)に下る坂の一つである。 この坂の東寄り(現・春日2-20-25あたり)で、明治12年に生まれ、少年時代をすごした永井荷風は、当時の「黒田小学校」(現在の旧第五中学校のある所、昭和20年廃校)に、この坂を通ってかよっていた。 荷風は、昭和16年ひさしぶりにこの坂を訪ずれ、むかしを懐しんでいる様子を日記に記している。 → 金剛寺坂のページ |
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今井坂 [新坂] (いまいざか[しんざか]) |
【標識の説明】 『改撰江戸志』には、「新坂は金剛寺の西なり、案に此坂は新に開けし坂なればとてかかるなあるならん、別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711〜16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。 今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂谷孫十郎殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。 この坂の上、西側一帯は、現在財務省の宿舎になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年に没した。現在、その面影を残すものは、入り口に繁る大公孫樹のみである。 この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり (釈 迢空) (この町とは旧金富町をさす) 坂上しばらく行ったところに徳川慶喜終焉の地の碑があります。 |
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庚申坂 (こうしんざか) |
【標識の説明】 「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・・・・略・・・・・・この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名“庚申坂” 昔、坂下に庚申の碑あり・・・・・・」『東京名所図会』 庚申信仰は庚申の日(60日ごと)人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人びとは一晩中夜明かしをした。この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。したがって、キリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。 「・・・・・・両側の藪の間を上る坂あり・・・・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』 とぼとぼと老宣教師ののぼりくる 春の暮れがたの切支丹坂 (金子薫園) 地下鉄ガード内から見た庚申坂(写真右)。なお、この地下鉄丸の内線下のガードは、上記の切支丹坂で説明した地下鉄ガードと同じで、切支丹坂と庚申坂が丁度ガードをはさんで互いに対している形になっています。 |