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文京区の坂(11) 〜 音羽・関口方面 【7坂】
各坂道の位置はこちら → 地図
八幡坂 (はちまんざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と東京名所図会にある。 明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。 → 八幡坂のページ |
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鼠坂 (ねずみざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 音羽の谷から小日向台地へ上る急坂である。 鼠坂の名の由来について「御府内備考」は「鼠坂は音羽五丁目より新屋敷へのぼる坂なり、至てほそき坂なれば鼠穴などといふ地名の類にてかくいふなるべし」とある。 森鴎外は「小日向から音羽に降りる鼠坂と云う坂がある。鼠でなくては上がり降りが出来ないと云う意味で附けた名ださうだ・・・人力車に乗って降りられないのは勿論、空車にして挽かせて降りることも出来ない。車を降りて徒歩で降りることさへ、雨上がりなんぞにはむづかしい・・・」と小説「鼠坂」でこの坂を描写している。 また、“水見坂”とも呼ばれていたという。この坂上からは、音羽谷を高速道路に沿って流れていた、弦巻川の水流が眺められたからである。 → 鼠坂のページ |
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目白坂 (めじろざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 西方清戸(清瀬市内)から練馬経由で江戸川橋北詰にぬける道筋を「清戸道」といった。主として農作物を運ぶ清戸道は目白台地の背を通り、このあたりから音羽谷の底地へ急傾斜で下るようになる。 この坂の南面に、元和4年(1618)大和長谷寺の能化秀算僧正再建による新長谷寺があり本尊を目白不動尊と称した。 そもそも三代将軍家光が特に「目白」の号を授けたことに由来するとある。坂名はこれによって名付けられた。『御府内備考』には「目白不動の脇なれば名とす」とある。 かつては江戸時代「時の鐘」の寺として寛永寺の鐘とともに庶民に親しまれた寺も、明治とともに衰微し、不動尊は豊島区金乗院にまつられている。 目白台の空を真北に渡る雁 稀に見る雁の四・五十羽かも 窪田空穂(1877-1967) 目白不動尊がある金乗院は、宿坂(豊島区高田)の坂下にあります。 |
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目白新坂 (めじろしんざか) |
【標識の説明】 この坂より南にある目白坂のいわばバイパスとして、明治二十年代の半ば頃新しくつくられた坂で、古い目白坂に対して目白新坂という。 明治末に書かれた「新撰東京名所図会」によると「音羽八丁目と同九丁目間より西の方関口台町へ上る坂あり椿坂という、近年開創する所、坂名は椿山の旧跡に因むなり、里俗又新坂ともいへり、道幅広く、傾斜緩なり、」とあり、椿坂、新坂ともいう。 坂を上った左側に「椿山荘」(山県有朋別邸跡地)があります。 |
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七丁目坂 | 【標識なし】 目白坂、目白新坂、七丁目坂、鳥尾坂、鉄砲坂、三丁目坂(南から北への順)は、ともに音羽谷から目白台へ、東から西へ上る坂で、それぞれ平行するような形になっています。 |
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鳥尾坂 (とりおざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 この坂は直線的なかなり広い坂道である。坂上の左側は独協学園、右側は東京カテドラル聖マリア大聖堂である。 明治になって、旧関口町92番地に鳥尾小弥太(陸軍軍人、貴族院議員、子爵)が住んでいた。西側の鉄砲坂は人力車にしても自動車にしても急坂すぎたので、鳥尾家は私財を投じて坂道を開いた。 地元の人々は鳥尾家に感謝をして「鳥尾坂」と名づけ、坂下の左わきに坂名を刻んだ石柱を建てた。 写真右は「鳥尾坂」と刻まれた石柱です。 |
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鉄砲坂 (てっぽうざか) |
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】 この坂は音羽の谷と目白台を結ぶ坂である。坂下の東京音楽学校学生寮のあたりは、江戸時代には崖を利用して鉄砲の射撃練習をした的場(角場・大筒角場ともいわれた)であった。その近くの坂をいうことで「鉄砲坂」とよばれるようになった。 |