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八幡坂(はちまんざか)
所在地: 文京区音羽2丁目4番(坂上部は25番)と6番の間 → 地図
@ 坂下から。左に標識が見える。この場所から右手(南)方向に進むと今宮神社がある |
A 同じく坂下から。2002年撮影。左に標識が見える。 |
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B 坂下から少し上ったところから見上げる。 |
C Bとほぼ同じところところから見上げる。2002年撮影。 |
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D BCから少し上ったところから見下ろす |
E Dとほぼ同じ時点から見上げる。 |
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F DEから更に上ったところから見上げる。 |
G Fからさらに上り、左に坂が折れる踊り場を見る。 |
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H 曲がり角の踊り場から坂下方向を見下ろす。 |
I Hから少し上り踊り場及び坂下方向を見下ろす。 |
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J 曲がり角の踊り場から見上げる。 |
K 同じく曲がり角の踊り場から見上げる。2002年撮影。 |
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L JKから少し上ったところから見下ろす。 |
M Lとほぼ同じ地点から見上げる。 |
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N LMから少し上ったところから見下ろす。 |
O Nとほぼ同じ地点から見上げる。 |
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P NOから更に上り坂上部から見下ろす。 |
Q Pと同じ地点から見上げる。中央に標識が見える。 |
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R PQから少し上り坂上近くから見下ろす。左に標識が見える。 |
S Rから少し上った地点から見下ろす。 |
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(21) 坂上から。 |
(22) 同じく坂上から。2002年撮影。 |
(23) 坂下にある標識(文京区教育委員会設置)。 |
(24) 坂上近くにある標識(文京区教育委員会設置)。 |
(25) (24)の標識を裏側から見たもの。 |
(26) 坂下の標識(写真23)の説明板。 |
(27) 坂上近くの標識(写真24,25)の説明板。 |
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(28) 坂下の南方に位置する今宮神社。 |
(29)坂上近くにある「石川啄木初の上京下宿跡」の標識。 |
【標 識】 説 明: 『八幡坂は小日向台三丁目より屈折して、今宮神社の傍に下る坂をいふ。安政四年(1857)の切絵図にも八幡坂とあり。』と東京名所図会にある。 明治時代のはじめまで、現在の今宮神社の地に田中八幡宮があったので、八幡坂とよばれた。坂上の高台一帯は「久世山」といわれ、かつて下総関宿藩主久世氏の屋敷があった所である。 設置者: 文京区教育委員会 設置日: 平成5年3月(坂下の標識)、平成6年3月(坂上の標識) |
【この坂について】
文京区音羽2丁目4番(坂上部は25番)と6番の間にある、階段の付いた坂道です。今宮神社の北、音羽2丁目4番と6番の間を西から東に上り、途中北に折れて、音羽2丁目25番と6番との間を上ります。
坂の南側に、坂名の由来となった田中八幡宮があった場所に、今宮神社(写真28)があります。
標識は、坂下と坂上にそれぞれ同じ文面の標識(文京区教育委員会設置)が立っています(写真23-27)。説明文は同じです。
坂上近くに、石川啄木初の上京下宿跡の標識(文京区教育委員会設置、平成18年3月設置)があります(写真29)。以下の文章が書かれています。
盛岡中学校を卒業直前にして退学した啄木は、文学で身を立てるため、明治35年(1902)単身上京した。そして、中学の先輩で金田一京助と同級の細越夏村の旧小日向台町にあった下宿を訪ねた。明治35年11月1日のことである。
その翌日、近くの大館光(みつ)方に下宿先を移した。
啄木日記には「室は床の間つきの七畳。南と西に橡(えん)あり。眺望大に良し。」とある。
与謝野鉄幹・晶子らに会い、文学に燃焼した日々を過ごしたが、生活難と病苦のため翌年2月、帰郷せざるを得なかった。
【写真撮影日】 2002年7月27日(ACK(22)(27))、2007年9月15日(左記以外)
【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】 2008年5月22日(2010年10月16日一部修正)