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文京区の坂(10) 〜 小日向方面 【11坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

茗荷坂
(みょうがざか)
【標識の説明】
「茗荷坂は、茗荷谷より小日向の台へのぼる坂なり云々。」と改撰江戸志にはある。これによると拓殖大学正門前から南西に上る坂をさすことになるが、今日では地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂をもいっている。
 茗荷谷をはさんでのことであるので両者とも共通して理解してよいであろう。
 さて、茗荷谷の地名については御府内備考に「・・・・・・むかし、この所へ多く茗荷を作りしゆえの名なり云々。」とある。
 自然景観と生活環境にちなんだ坂名の一つといえよう。

左の写真は拓殖大学の正門前から地下鉄茗荷谷駅方面へ上る坂を写したものです。
ここから手前左の道を行くと、「改選江戸志」にいう茗荷坂があります(写真右)
釈迦坂
(しゃかざか)
【標識の説明】
春日通りから、徳雲寺の脇を茗荷谷に下る坂である。
 『御府内備考』によれば、「坂の高さ、およそ一丈五尺(約4m50cm)ほど、幅6尺(約1m80cm)ほど、里俗に釈迦坂と唱申候。是れ徳雲寺に釈迦の石像ありて、ここより見ゆるに因り、坂名とするなり。」
 徳雲寺は臨済宗円覚寺派で、寛永7年(1630)に開山された。『新撰江戸志』に寺伝に関する記事がある。
 境内に 大木の椎の木があった。元禄年間(1688〜1704)五代将軍綱吉が、このあたりへ御成の時、椎木寺なりと台命があった。そこで、この寺を椎木寺と呼ぶようになった。後、この椎の木は火災で焼けてしまったが、根株から芽が出て、大木に成長した。明治時代になり、その椎の木は枯れてしまった。椎木寺が椎の木を失ったことは惜しいことである。
 徳雲寺の境内には六角堂があり、弁財天が祀られ、近年小石川七福神の一寺となっている。


写真左で左側の石垣の所に見えるのが徳雲寺の境内。奥を丸の内線が電車が走っているが、坂の下部は地下鉄丸の内線と並行しています。






写真右は坂下からのもの。
藤坂
(ふじざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
「藤坂は箪笥町より茗荷谷へ下る坂なり、藤寺のかたはらなればかくいへり、」(『改撰江戸志』)藤寺とは坂下の曹洞宗伝明寺である。
 『東京名所図会』には、寺伝として「慶安三年寅年(1650)閏十月二十七日、三代将軍徳川家光は、牛込高田田辺御放鷹(鷹狩のこと)御成の時、帰りの道筋、この寺に立ち寄り、庭一面に藤のあるのを見て、これこそ藤寺なりと上意があり」との記事があり、藤寺と呼ぶようになった。
 昔は、この坂から富士山が望まれたので、
富士坂ともいわれた。
 『続江戸砂子』い、「清水谷は小日向の谷なり。むかしここに清水が湧き出した」とある。また、ここの伝明寺には銘木の藤あり。一帯は湿地で、禿(河童)がいて、
禿坂ともいわれた。
   藤寺のみさかをゆけば清水谷
      清水ながれて蕗の苔もゆ (金子薫園)


→ 藤坂のページ
蛙坂[復坂]
(かえるざか)
【標識の説明】
「蛙坂は七間屋敷より清水谷へ下る坂なり、或は復坂ともかけり、そのゆへ詳にせず」(改撰江戸志)
 『御府内備考』には、坂の東の方はひどい湿地帯で蛙が池に集まり、また向かいの馬場六之助様御抱屋敷内に古池があって、ここにも蛙がいた。むかし、この坂で左右の蛙の合戦があったので、里俗に蛙坂とよぶようになったと伝えている。
 なお、七間屋敷とは、切支丹屋敷を守る武士たちの組屋敷のことであり、この坂道は切支丹坂に通じている。
切支丹坂
(きりしたんざか)
【標識なし】

坂を上り右折したところに切支丹屋敷跡の碑が立っています。





坂下の地下鉄ガードから見た切支丹坂
荒木坂
(あらきざか)
【標識の説明】
 称名寺の東横を、小日向台地に上がる坂である。
 『江戸砂子』によれば「前方坂のうへに荒木志摩守殿屋敷あり。今は他所へかはる」とある。坂の規模は「高さ凡そ五丈程(約15m)、幅弐軒弐尺程(約4m)(『御府内備考』)と記されている。この坂下、小日向台地のすそを江戸で最初に造られた神田上水が通っていたことから、地域の人々は、上水に沿った通りを”水道通り”とか”巻石通り”と呼んでいる。
 神田上水は、井の頭池を源流とし、目白台下の大洗堰(大滝橋付近)で水位を上げ、これを開渠で水を導き、水戸屋敷(後楽園)へ入れた。そこからは暗渠で神田、日本橋方面へ配水した。明治11年頃、水質を保つため、開渠に石蓋をかけた。その石蓋を”巻石蓋”と呼んだ。その後、神田上水は鉄管に変わり、飲料水としての使用は明治34年(1901)までで、以後は、水戸屋敷跡地に設けられた兵器工場(陸軍砲兵工廠)の工業用水として利用された。
薬罐坂
(やかんざか)
【標識なし】
横町坂
【標識なし】
服部坂
(はっとりざか)
【標識の説明】
 坂の上には江戸時代、服部権太夫の屋敷があり、それで「服部坂」とボばれた。服部氏屋敷跡には、明治2年(1869)に小日向神社が写された。
 永井荷風は眺望のよいところとして、「日和下駄」に「金剛寺坂荒木坂服部坂大日坂等は皆斉しく小石川より牛込赤城番町辺を見渡すによい。・・・」と書いている。
 坂下にある文京区第五中学校はもと黒田小学校といい、永井荷風も通学した学校である。戦災で廃校となった。
大日坂
(だいにちざか)
【標識の説明】(坂上部にある標識)
「・・・坂のなかばに大日の堂あればかくよべり。」(改撰江戸志)
 この「大日堂、とは寛文年中(1661〜73)に創建された天台宗覚王山妙足院の大日堂のことである。
 坂名はこのことに由来するが、別名「八幡坂」については現在小日向神社に合祀されている田中八幡神社があったことによる。
 この一円は寺町の感のする所である。
    この町に遊びくらして三年居き
       寺の墓やぶ深くなりたり  
             折口信夫(筆名・釈迢空1887〜1953)

【別の標識の説明】(坂下部にある標識(写真下右手))
坂の名の由来は、坂の途中に大日堂があったことから呼ばれるようになったものであろう。
 堂のあるこの寺は天台宗で、覚王山妙足院と号し、開祖は清?善尼上人(紀州家の奥女)で、堂廟の創立は寛文二年(一六六二)といわれている。
 その後何度かは火災にあったので、堂は現在に至っていないが、坂の北の方の道造り?は妙足院で施工したと伝えられる。
 小日向の名の由来については、古く鶴高日向という人の領地だったが絶家した後、「古日向があと」といっていたものが、いつか「こひなた」と呼ばれるようになったのであろうと、『御府内備考』では述べている。

この坂は珍しく同じ文京区が設置した標識が2種類ある坂です。
鷺坂
(さぎざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。
 この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892〜1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。
 足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり」とある。


→ 鷺坂のページ