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鷺坂(さぎざか)
所在地: 文京区小日向2丁目19番/20番と21番の間 → 地図
@ 坂下手前から。 |
A 坂下から。2002年撮影。 |
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B 坂下から少し上ったところから見上げる。 |
C Bから少し上ったところから見上げる。 |
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D Cから少し上ったところから曲がり角の踊り場にある標識を望む。 |
E 坂半ばの踊り場から坂下を見下ろす。 |
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F Eとほぼ同じ所から。左は坂下へ、右は坂上へ。 |
G EFとほぼ同じ時点から坂上方向を見上げる。 右に石製の標識、その後ろに文京区教育委員会設置の標識。 |
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H EFGから少し上ったところから見下ろす。 |
I Hとほぼ同じ時点から見上げる。 |
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J HIから少し上ったところから見上げる。右に標識が見える。 |
K Jから少し上ったところから見下ろす。左に標識が見える。 |
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L Kから少し上ったところから見下ろす。2002年撮影。 |
M 坂上から。 |
N 坂半ばにある標識。手前に久世山会が設置した石製の標識、後ろに文京区教育委員会設置の標識。 |
O 久世山会が設置した石製の標識。側面に見えるのは万葉仮名で「山城久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散来」と彫られている。この反対側の側面は書き下し文。 |
P 同じ場所の標識。2002年撮影。後方の標識は文京区が昭和51年に設置したもの。 |
Q 現在設置されている文京区教育委員会の標識の説明板。 | R 以前設置されていた文京区の標識の説明板。2002年撮影。 |
【標 識】 説 明: この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。そのため地元の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。 この久世山も大正以降は住宅地となり、堀口大学(詩人・仏文学者 1892〜1981)やその父で外交官の堀口九万一(号長城)も居住した。この堀口大学や、近くに住んでいた詩人の三好達治、佐藤春夫らによって山城国の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、自然な響きをもって世人に受け入れられてきた。 足元の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は堀口九万一による。一面には万葉集からの引用で、他面にはその読み下しで「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり」とある。 文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。 設置者: 文京区教育委員会 設置日: 平成18年3月 |
【この坂について】
文京区小日向2丁目19番/20番と21番の間にある坂道です。住宅街にあって、東北東に上り、途中鋭く折れ曲がって北西へ上る坂道です。
標識については、坂道の中ほどにある曲がり角(踊り場のようになっている)に、文京区教育委員会の標識と、その説明文にも登場する石製の標識の2種類が設置されています(写真N)。
このうち、石製の標識には、以下の文字が彫られています(写真O参照)。
[正面] 鷺坂
[右側面] 山城久世乃鷺坂自神代春者張乍秋者散来
[左側面] 山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり
[裏面] 昭和七年七月 久世山會建之
ここに彫られている歌は、柿本人麻呂の詠んだ歌で、万葉集巻9-1707に収められています。この他にも万葉集には鷺坂を詠んだ歌があります。久世は現在京都府城陽市内にありますが、これらの歌に詠まれた鷺坂の位置についてはいくつかの説があるようです。
なお、現在の文京区教育委員会の標識が設置される以前には、同じ位置に昭和51年3月に文京区が設置した標識がありました(写真PR)。その説明文は現在のものと若干異なり、以下のとおりでした。
この坂上の高台は、徳川幕府の老中職をつとめた旧関宿藩主・久世大和守の下屋敷のあったところである。ために土地の人は「久世山」と呼んで今もなじんでいる。
この久世山も明治以降、住宅地となり堀口大学(詩人・仏文学者。1892〜 )その尊父、長城堀口九万一も居住するようになる。
そして、近くに住む詩人の三好達治、佐藤春夫などによって山城の久世の鷺坂と結びつけた「鷺坂」という坂名が、ごく自然な響をもって世人に受けいれられてきた。
足本の石碑は、久世山会が昭和7年7月に建てたもので、揮毫は長城堀口九万一によるが、一面には万葉仮名で、他面には今日風で「山城の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり」とある。
文学愛好者の発案になる「昭和の坂名」として異色な坂名といえる。
【写真撮影日】 2002年7月27日(ALPR)、2007年9月15日(左記以外)
【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】 2008年5月17日