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文京区の坂(1) 〜 湯島方面(その1) 【10坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

相生坂
[昌平坂]

(あいおいざか、しょうへいさか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
 神田川対岸の駿河台の淡路坂と並ぶので相生坂という。
 「東京案内」に、「元禄以来聖堂のありたる地なり、南神田川に沿いて東より西に上る坂を相生坂といい、相生坂より聖堂の東に沿いて、湯島坂に出るものを昌平坂という。昔はこれに並びてその西になお一条の坂あり、これを昌平坂といいしが、寛政中聖堂再建のとき境内に入り、遂に此の坂を昌平坂と呼ぶに至れり」とある、そして後年、相生坂も昌平坂とよばれるようになった。
 昌平とは聖堂に祭られる孔子の生地の昌平郷にちなんで名づけられた。
   これやこの孔子の聖堂あるからに
      幾日湯島にい往きけむはや   法月歌客


写真右側に湯島聖堂があります。正面にみえる橋が聖橋。
昌平坂
(しょうへいざか)

【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
湯島聖堂と、東京医科歯科大学のある一帯は、聖堂を中心とした江戸時代の儒学の本山ともいうべき「昌平坂学問所(昌平黌)」の敷地であった。
 そこで学問所周辺の三つの坂を、ひとしく「昌平坂」と読んだ。この坂もその一つで、昌平黌を今に伝える坂の名である。
 元禄7年(1694)9月、ここを訪ねた桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)は、その時のことを次の和歌に詠んでいる。
   万世の秋もかぎらしもろともに
      もうでて祈るみちぞかしこし

相生坂を下ったところを曲がったところにある坂道です。写真左側が湯島聖堂になります。

→ 昌平坂のページ

湯島坂
(ゆしまざか)
【標識なし】

写真左側の木々があるところが湯島聖堂です。湯島聖堂は、相生坂・昌平坂・湯島坂の三坂に三方を囲まれています。坂の右手には神田明神への入り口があります。
樹木谷坂
(じゅもくたにざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
地獄谷坂とも呼ばれている。この坂は、東京医科歯科大学の北側の裏門から、本郷通りを越えて、湯島1丁目7番の東横の路を北へ、新妻恋坂まで下る坂である、そして、新妻恋坂をはさんで、横見坂に対している。
 「御府内備考」には、「樹木谷3丁目の横小路をいふ」とある。尭恵法印の「北国紀行」のなかに「文明19年(1487)正月の末、武蔵野の東の界・・・ならびに湯島といふ所あり。古松遥かにめぐりて、しめの内に武蔵野々遠望かけたるに、寒村の道すがら野梅盛に薫ず」とある。天神ゆかりの梅の花が咲く湯島神社の周辺のようすである。
徳川家康が江戸入府した当時は、この坂下一帯の谷は、樹木が繁茂していた。その樹木谷に通ずる坂ということで、樹木谷の名が生まれた。
 地獄谷坂と呼ばれたのは、その音の訛りである。
 なお、湯島1丁目の地に、明治14年(1881)渡辺辰五郎(千葉県長南町出身)が近代的女子技術教育の理想をめざし、和洋裁縫伝習所を創設した。その後、伝習所は現東京家政大学へ発展した。
横見坂
[横根坂]

(よこみざか、よこねざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
『御府内備考』に
 「右坂は町内より湯島三組町え上り候坂にて、当町並本郷新町家持に御座候・・・・・・里俗に横根坂と相唱申候」とある。
 坂下の蔵前通りの新妻恋坂の一帯は、かって樹木谷といわれ、樹木が茂っていた、この谷から湯島台に上るこの坂の左手に富士山が眺められた。
 町の古老は、西横に富士山がよく見えて、この坂を登るとき、富士を横見するところから、誰いうとなく横見坂と名づけられたといっている。
 坂の西側一帯は、旧湯島新花町である。ここに明治30年頃、島崎藤村が住み、ここから信州小諸義塾の教師として移って行った。
 その作品『春』の中に、
 「湯島の家は俗に大根畠と称えるところに在った。・・・・・・大根畠は麹の香のする町で」とある。ローム層の台地は、麹室には最適で『文政書状』には、百数十軒の麹屋が数えられている。

→ 横見坂[横根坂]のページ

清水坂
(しみずざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
 江戸時代、このあたりに、名僧で名高い大超和尚の開いた霊山寺があった。明暦3年(1657)江戸の町の大半を焼きつくす大火がおこり、この名刹も焼失し、浅草へ移転した。
 この霊山寺の敷地は、妻恋坂からかんだ神社(神田明神)にかかる広大なものであった。嘉永6年(1853)の「江戸切絵図」を見ると、その敷地跡のうち、西の一角に島田弾正という旗本屋敷がある。明治になってその敷地は清水精機会社の所有となった。
 大正時代に入って、湯島天満宮とお茶の水の間の往き来が不便であったため、清水精機会社が一部土地を町に提供し、坂道を整備した。
 そこで、町の人が、清水家の徳をたたえて、「清水坂」と名づけ、坂下に清水坂の石柱を建てた。
新妻恋坂
(しんつまごいざか)
【標識なし】
妻恋坂
(つまごいざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
大超坂・大潮坂・大長坂・大帳坂と別名を多く持つ坂である。「新撰東京名所図会」に、「妻恋坂は妻恋神社の前の前なる坂なり。大超坂とも云ふ。本所霊山寺開基の地にて、開山大超和尚道徳高かりしを以て一にかく唱ふという」とある。この坂が「妻恋坂」と呼ばれるようになったのは、坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)後に移り、坂の北側に「妻恋神社(妻恋稲荷)」が旧湯島天神町から移ってきてからである。

※現在、標識は撤去されています。

説明にある妻恋神社は、坂の上方右手に現在もあります。
立爪坂
(たてつめざか)
【標識なし】

妻恋坂(上の写真)の中腹を上って右に曲がったところにあります。

傘谷坂
(からかさだにざか、かさだにざか)
【標識(文京区教育委員会設置)の説明】
傘谷をはさんで、向き合う二つの坂をいう。改選江戸志という書物によると、傘谷は、金助町(旧町名)の北の方にあって、傘づくりの職人が多く住んでいた窪地である。それで傘谷、傘坂の名がついた。
 金助町に生まれた歌人・岡麓は、大正12年の大震災で家が焼け、その焼け跡で、
 “あさはかに 家居移しし 悔心
      このやけあとに 立ちて嘆かゆ”
とよんだ。

写真は、南側の坂の途中から坂下となる窪地と北へ上る坂を撮影したものです。