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台東区の坂(1) 〜 上野方面 【10坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

清水坂
(きよみずざか)
【標識(台東区教育委員会設置)の説明】
この坂を「清水坂」という。坂の上には、東叡山寛永寺清水観音堂があり、坂の名はその堂の名称にちなむ。清水観音堂は寛永八年(一六三一)に京都の清水寺を模し摺鉢山の上に創建され、元禄七年(一六九四)に現在地へ移転した。国の重要文化財に指定されている。


上野公園内にあります。写真で坂上左に見える建物が清水観音堂です。有名な西郷隆盛像の裏あたりにあります。
稲荷坂
(いなりざか)
【標識(台東区教育委員会設置)の説明】
花園稲荷神社は「穴稲荷」「忍岡稲荷」とも呼ばれ、創建年代は諸説あるが、江戸時代初期には創建されていた。これにより江戸時代から「稲荷坂」の名がある。享保十七年(一七三二)の『江戸砂子』にその名が見え、明治二十九年(一八九六)の『新撰東京名所図会』には「稲荷坂 忍ヶ岡の西方に在りて、穴稲荷社へ出る坂路をいふ。」とある。

→ 稲荷坂のページ
忍坂
(しのぶざか)
【標識なし】

→ 忍坂のページ
車坂
(くるまざか)
【標識なし】

JR上野駅公園口から線路沿いに南に下る坂道です。上野駅周辺に車坂と呼ばれる坂は下に載せたものと併せて2つあります。
車坂
(くるまざか)
【標識なし】

JRの線路を跨る両大師橋の東側から北方に下る坂道です。
新坂
(しんざか)
【標識の説明】
明治になって新しく造られた坂である。それで新坂という。明治十一年(一八七八)内務省製作の『上野公園実測図』にある
「鶯坂」がこの坂のことと考えられ、少なくともこの時期に造られたらしい。鶯谷を通る坂だったので、「鶯坂」ともいわれ、坂下の根岸にちなんだ「根岸坂」という別名もある。

JR鶯谷駅南口から上野公園方向に登る坂道です。
清水坂
(しみずざか)
【標識の説明】
坂近くに、弘法大師にちなむ清泉が湧いていたといわれ、坂名はそれに由来したらしい。坂上にあった寛永寺の門を清水門と呼び、この付近を清水谷と称していた。かつては樹木繁茂し昼でも暗く、別名
「暗闇坂」ともいう。
三段坂
(さんだんざか)
【標識の説明】
『台東区史』は、この坂について、「戦後、新しい呼名の坂が、・・・屋敷町の大通りに生れた。段のついた坂で、三段坂と呼ばれている。」と記している。戦後は第二次大戦後であろう。清水町はこの地の旧町名で、この坂道は明治二十年(一八八七)版地図になく、同二十九年版地図が描いている。したがって、明治二十年代に造られた坂である。


写真では見にくいですが、確かに三段になっています。
寛永寺坂
(かんえいじざか)
【標識(台東区教育委員会設置)の説明】
大正年間(一九一一〜二五)発行の地図からみて、この坂は同十年ごろ、新設されたように推察される。当初は鉄道線路を踏切で越えていた。現在の跨線橋架設は昭和三年(一九二八)八月一日。名称は寛永寺橋である。坂の名をとったと考えていい。坂の名は、坂上が寛永寺境内だったのにちなむという。寛永寺は徳川将軍の菩提寺だった。坂上、南に現存。


言問通りを、JRの線路をわたる寛永寺陸橋を越えるとある緩やかな坂です。このあたりに、かつて、京成電鉄の寛永寺坂駅という地下駅があったことでも知られています。
御隠殿坂
(ごいんでんざか)
【標識の説明】
明治四十一年(一九〇八)刊『新撰東京名所図会』に、「御隠殿坂は谷中墓地に沿ひ鉄道線路を経て御隠殿跡に下る坂路をいふ。もと上野より御隠殿への通路なりしを以てなり。」とある。御隠殿は東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸。江戸時代、寛永寺から別邸へ行くため、この坂が造られた。「鉄道線路を経て」は踏切を通ってである。

左の写真で、左に行く下り坂が御隠殿坂です。JRの線路がその向うに見えます。

坂下から。坂上は谷中墓地へと続きます。