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目黒区の坂(3) 〜 目黒・下目黒方面 【12坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

茶屋坂
(ちゃやざか)
【標識(目黒区教育委員会)の説明】
この坂の近くに一軒茶屋があったので茶屋坂とよぶようになった。この茶屋は「じじが茶屋」ともよばれ、江戸時代に将軍が目黒へ狩りに来た時、よく立ち寄ったところである。

上の標識は写真に見える木柱の標識の説明ですが、写真の坂道を真っ直ぐ行ったところにも、「茶屋坂と爺々が茶屋」という目黒区教育委員会設置の標識があります。その説明は、次のとおり。
 
茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
 この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
 こんなことから「目黒のさんま」の話が生まれたのではないだろうか。
新茶屋坂
(しんちゃやざか)
【標識なし】

茶屋坂に並行する長い坂道です。
富士見坂
(ふじみざか)
【標識なし】

東京都教職員研修センター・東京都教員相談センター前の坂道です。

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馬喰坂
(ばくろざか)
【標識(目黒区教育委員会)の説明】
目黒の古い方言で風雨にさらされ地面に穴のあいた状態を「ばくろ」といった。この坂にはこの「ばくろ」が多かったので「ばくろ坂」と呼ぶようになったといわれる。馬喰とは当て字である。

坂上には「馬喰坂上の庚申塔群」(写真下)があります(目黒区教育委員会設置の標識あり)。
十七が坂
(じゅうしちがざか)
【標識(目黒区教育委員会)の説明】
この坂のあたりに戸数十七軒からなった集落があったので十七が坂と呼ぶようになったといわれる。また、この坂ですべってころぶと十七才になった時災いが起こるという言い伝えがあった。
金毘羅坂
(こんぴらざか)
【標識(東京都設置)の説明】
坂の西側に金毘羅権現社(高憧寺)があったので坂の名がついたといわれる。金毘羅権現社は江戸名所図会の挿絵にその壮観がしのばれるが明治時代の初めに廃寺になった。坂の東側は明治四十年に目黒競馬場ができ昭和八年に府中に移転するまでこの坂は競馬場にいき通う人々でにぎわった。

写真において左手前に大鳥神社があります。
権之助坂
(ごんのすけざか)
【標識なし】
有名な坂道ですが標識は見あたりません。強いて言えばこの自動車用の標識ですが・・・。

行人坂
(ぎょうにんざか)
【坂下の標識(目黒雅叙園設置)の説明】
行人坂の由来は大円寺にまつわるもので、寛永年間(1624)このあたりに巣食う、住民を苦しめている不良のやからを放逐する為に、徳川家は奥州(山形県)湯殿山から高僧行人「大海法師」を勧請して開山した。その時不良のやからを一掃した功で、家康から「大円寺」の寺号を与えられた。
当時この寺に「行人」が多く住んでいた為、いつとはなしに江戸市中に通じるこの坂道は行人坂と呼ばれるようになった。

【坂中腹の標識(目黒区教育委員会設置)の説明】
寛永の頃、出羽(山形県)の湯殿山の行人が、このあたりに大日如来堂を建立し修行を始めました。しだいに多くの行人が集まり住むようになったので、行人坂と呼ばれるようになったといわれています。
 
三折坂
(みおりざか)
【標識(目黒区教育委員会)の説明】
三つに折れ曲った形状から三折坂と呼ばれるようになった。また、目黒不動への参詣者がこの坂をおりていくので、「御降坂」とよんだともいわれる。


目黒不動の脇を通る坂です。
目黒不動男坂・女坂
(めぐろふどうおとこざか・おんなざか)
左の急な階段が男坂、一つ飛ばして、その右にある階段が女坂です。
石古坂
(いしこざか)
【標識(目黒区教育委員会)の説明】
石ころが多い坂だったので石古坂とよぶようになったといわれる。また、この近くに石河という屋敷があったので、坂名になったともいわれる。

写真右手前は「林試の森」の入口です。