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北区の坂(6) 〜 赤羽北部方面【12坂】
各坂道の位置はこちら → 地図
大坂 (おおさか) |
【標識(東京都北区教育委員会設置)の説明】 この坂は、赤羽根駅西口から赤羽台団地へ登る坂で、古くから往来の多い坂です。昔は、赤羽から上の台(うえんだい)に登り、旧板橋街道に抜ける坂でした。大坂の名は、その昔「小坂」と呼ばれた清瀧不動(きよたきふどう)の石段に対するものとして付けられました。ここは、狸(たぬき)にまつわる民話が残っているところで、狸坂とも呼ばれます。また、政右衛門坂(まさえもん)坂と呼ぶ人もいます。 |
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うつり坂 |
【標識(北区教育委員会設置)の説明】 赤羽台東小学校の北にあるこの坂は、旧板橋街道の坂道の一つです。大正八年(一九一九)に旧陸軍被服本廠が赤羽に移転すると、被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行は出来なくなってしまいましたが、戦後、被服本廠の跡地に赤羽台団地が出来たため、元の坂道となりました。かつて坂の上には道祖神、庚申塔がありましたが、現在は団地内に移され、祀られています。 【以前の標識の説明】 旧板橋街道の坂のひとつであったが、旧陸軍被服本廠が大正八年(一九一九)赤羽に移転してきた時から被服本廠通用門への坂となり、関係者以外の通行はできなくなった。戦後被服本廠跡地に赤羽台団地ができ元の坂道となった。坂名の由来は定かでない。 |
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八幡坂 (やわたざか) |
【標識の説明】 板橋街道は、宝幢院前で岩槻街道(日光御成道)と分かれ中山道に至る道ですが、大正八年、旧陸軍被服本廠が赤羽台に移転してきて、道の一部が敷地内に入ったので、一般の通行のため、同廠北側に設けられたのがこの坂道です。 八幡坂の名は、この北にある八幡谷に因んだ地元の呼称で、それが定着したものです。 坂上付近にある石製及び木の立札の標識 |
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師団坂 (しだんざか) |
【標識の説明】 この坂は、旧陸軍の近衛師団と第一師団に所属した二つの工兵大隊に向かう坂道でした。明治二十年(一八八七)八月から九月にかけてこれらの工兵大隊が現在の丸の内から赤羽台四丁目内に移ってきたので、坂はつくられました。 この坂は、「工兵坂」とも呼ばれ、休日などの際は軍人や面会者の往来で賑わいました。当時の工兵隊の兵営は「赤羽の兵隊屋敷」と呼ばれ、工兵隊による浮間橋の架橋や花見時の兵営開放などにより、付近の住民にも親しまれていました。 現在、兵営の間にあった練兵場は住宅地となり、第一師団工兵大隊跡は学校法人星美学園の敷地となっています。 |
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稲荷の坂 (いなりのさか) |
【標識(北区教育委員会設置)の説明】 この坂道は、赤羽北一ー三・四地先から赤羽台四丁目公園付近まで続きます。道筋としては赤羽根付村と岩淵宿の境付近で日光御成道(岩槻街道)と別れ、袋村を経て小豆沢村へと向かう鎌倉道でもありました。昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができたそうです。坂の名称は特にありませんでしたが、坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の坂とよばれるようになりました。 |
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宮の坂 (みやのさか) |
【標識(北区教育委員会設置)の説明】 坂の名前にある「宮」は、この地域の旧村名である袋村の鎮守、諏訪神社のことを指しており、坂道はこの神社の参道を経て赤羽方面へと抜けていきます。 神社の二の鳥居前にも切通しの坂がありますが、これは新しく出来た坂で、宮の前の坂と呼ばれています。この坂も宮の坂と同様に交通量が多い坂です。 【以前の標識の説明】 旧袋村から赤羽に抜ける重要な坂で諏訪神社の参道に続く。「宮の坂」の宮はこの神社のことである。今も舗装前の様子を思い浮かべれば、樹木の多いこの坂は、浮間の桜草狩りの渡し場へのにぎわいがよみがってくる。参道を切断し、二の鳥居前にできた切通しの新坂は宮の前の坂といわれ交通量も多い。 坂上の諏訪神社 |
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宮の前の坂 (みやのまえのさか) |
【標識なし】 宮の坂の標識に書かれている坂道です。 |
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殿山の坂 (とのやまのさか) |
【標識の説明】 袋小学校前から台地へ登る階段の坂で、殿山の名は台地上の旧字名に由来する。昔、台地には人家が無く一望の畑地で、人がやっと通れる農道であった。 |
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念仏坂 (ねんぶつざか) |
【標識なし】 | |
ふか坂 | 【標識(北区教育委員会設置)の説明】 赤羽三丁目と板橋区小豆沢四丁目の境を南西に登る坂道です。坂名は、うっそうとした樹木におおわれて、谷深い中を蛇行している坂であったことによります。坂を下って北へ行くと荒川にでます。そこは、かつて袋村河岸があり、地元では大根河岸とも呼んでいました。この坂は袋村河岸から中山道への通路にあり、馬坂とも呼ばれていました。 |
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富士見坂 (ふじみざか) |
【標識(東京都設置)の説明】 この坂を富士見坂という。このあたり、昔は人家のない台地で、富士山の眺望がよかったところからこの名がついた。江戸時代の「遊暦雑記」には、「左右只渺茫たる高みの耕地にして折しも夕陽西にかたぶきぬれば全景の芙嶽を程近く見る。此景望又いうべき様なし」と記されている。 かつてこの近くに周囲五〇〇余メートルといわれる大塚古墳(円墳)があったが、いまはみられない。 → 富士見坂のページ |
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かなくさ坂 |
【標識なし】 |