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新宿区の坂(3) 〜 市ヶ谷駅周辺方面 【13坂】
各坂道の位置はこちら → 地図
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      歌坂 (うたざか)  | 
      【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】 雅楽坂ともいう。一説には「善告鳥(うとう)(海鳥の一種)」の口ばしに似た地形であることからともいう。「うとう」が「うた」になり、歌坂に転じたものであろう。 右側に見える建物は法政大学です。  | 
    
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      鰻坂 (うなぎざか)  | 
      【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】 坂が曲がりくねっているから鰻のような坂だという意味で鰻坂とよばれた。「御府内備考」の払方西文政丁亥書上に「里俗鰻坂と唱候、坂道入曲り登り云々」と記されている。  | 
    
    
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      鼠坂 (ねずみざか)  | 
      【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】 細くて狭い坂だったから、まるで鼠がとおるほど狭かったからそう名づけたのであろう。  | 
    
    
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      芥坂 (ごみざか)  | 
      坂道の標識はありませんが、坂下にある歩道橋に「ごみ坂歩道橋」というプレートが貼られています(写真下)。![]()  | 
    
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      浄瑠璃坂 (じょうるりざか)  | 
      【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】 坂名の由来については、昔、この坂で「あやつり浄瑠璃」の小屋興行を行ったから。近くに光円寺があり、その本尊の薬師如来は東方浄瑠璃世界の教主であるからなどの諸説がある。 寛文12年(1672)この坂の辺りで宇都宮藩士たちによる「浄瑠璃坂の仇討ち」がありました。荒木又衛門の伊賀越、赤穂浪士の吉良邸討入りとともに、江戸時代の三大仇討ちの一つに数えられているそうです。この仇討ちについてはこちらのサイトが参考になります。赤穂浪士が参考にしたとの話も。  | 
    
    
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      長延寺坂 (ちょうえんじざか)  | 
      【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】 昔、この坂の上に長延寺という寺があった。そこに参詣する人々がこの坂を通ったことから自然にそうよばれるようになったという。  | 
    
    
    
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      中根坂 (なかねざか)  | 
      【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】 昔、この坂道の西側に幕府の旗本中根家の屋敷があったので、人々がいつの間にか中根坂と呼ぶようになった。 道の両側は大日本印刷関係の建物ばかりです。  | 
    
    
    
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      安藤坂 (あんどうざか)  | 
      【標識なし】 中根坂と向かい合っており、中根坂の坂下から南へ登る坂道です。  | 
    
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      左内坂 (さないざか)  | 
      【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】 この坂は江戸時代初期に周辺の土地とともに開発されたもので、開発名主島田左内の名に因み左内坂と呼ばれるようになった。島田家はその後明治時代まで名主をつとめ、代々島田左内を名乗ったという。  | 
    
    
    
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      市ヶ谷八幡男坂 (いちがやはちまんおとこざか)  | 
      【標識なし】 かなり急な石段の坂です。坂上には市ヶ谷亀岡八幡宮があります。  | 
    
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      市ヶ谷八幡女坂 (いちがやはちまんおんなざか)  | 
      【標識なし】 男坂の脇(西側)にある、男坂より緩やかな坂です。  | 
    
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      高力坂 (こうりきざか)  | 
      【標識(東京都設置)の説明】 新撰東京名所図会によれば、「市谷門より四谷門へ赴く、堀端辺に坂あり、高力坂という。幕臣高力小次郎の邸あり、松ありしかば此名を得たり、高力松は枯れて、今、人見の合力松を存せり、東京電車鉄道の外濠線往復す」とある。すなわち、高力邸にあった松が高力松と呼ばれ有名であったのでその松にちなんで坂名を高力坂と名づけたと思われる。  | 
    
    
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      比丘尼坂 (びくにざか)  | 
      【標識(新宿区教育委員会設置)の説明】 「御府内備考」によると、昔、この坂の近くの尾張家の屋敷に剃髪した老女がいたことから、こう呼ばれたという。  |