逢坂(おうさか)
別 名: 大坂、美男坂
所在地: 新宿区市谷船河原町 → 地図
@ 坂下から。左に標識が見える。 |
A 同じく坂下から。1999年撮影。 |
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B 同じく坂下から。右に船河原町築土神社が見える。 |
C 坂下部から見上げる。 |
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D 坂上から。右に標識が見える。 |
E 同じく坂上から。右に標識が見える。1999年撮影。 |
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F 同じく坂上から。右に標識が見える。 |
G 坂下にある船河原町築土神社。左手前には「堀兼の井」 |
H 坂下にある標識(新宿区教育委員会設置) |
I 坂上にある標識(新宿区教育委員会設置) |
【標 識】 説 明: 昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地に来た時、美しい娘と恋仲になり、のち都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み、逢坂とよばれるようになった。 設置者: 東京都新宿区教育委員会 設置日: 平成三年九月 |
【この坂について】
外堀通りから、新宿区市谷船河原町にある交差点を西に入り少し行ったところから、市谷船河原町十四番と十五番の間を西方に向けて登る急な坂道です。
逢坂のについては、『紫の一本』に次の逸話が載っているそうです(岡崎清記『今昔東京の坂』からの引用)。上記の標識の説明はこれを簡単に説明したものです。
「昔なら御門の御時、小野の美作吾と云人、武蔵守に成て此国へ下りし給ひし時、此所にさねかずらと云てたぐひなき美女ありしを、美作吾思い初とりむかへてより、片時も離るる事なし、月日経て、帝よりのめしによりて奈良の都に登り、若草山の麓に住給ひしが、さねかずらが事を忘れかね、日にまし思ひ深くなりて、死べき時になり、我死なば武蔵国へからだを下して、さねかづらが住しあたりに葬るべしといひ置て、終にむなしく成給ふ。然れども、国遠き事なれば下す事かなひがたく、、若草山の麓におさめて、此所をむさし野と名付けたるとなり、さねかづらも美作吾の事を明暮恋かなしみ、今一度あはせ給はれと神に祈をかけたりしに、正しき夢の告にまかせ、此坂へきたりて美作吾を待たりしに、見しにかはらぬ姿にて、夢ともなく現ともなく、しばらく相かたらひ消うせぬ、夫より此坂を逢坂と名付けるとぞ、(略)扨さねかづらは今は活てよしなしと思ひ、彼坂の下の水に入て死たり、所のものが哀がりて、彼水をきりながし、むなしきかばねを取あげてとぶらひけるとぞ」
横関英一『江戸の坂東京の坂』は、逢坂に一つの章をあてていますが、その中でこの坂について、「江戸の坂としては珍しく、妙に気取った名前で、どうしても江戸っ子のつけたもののとは考えられない。また、この坂にからんだ伝説というものがすでに江戸向きのものではない。」としたうえで、上記の逸話を紹介しています。そして、それに続き、百人一首にも採られている三条右大臣の歌
名にしおはば逢坂山のさねかづら人にしられでくるよしもがな(『後撰集』)
(注)この「逢坂山」とは山城と近江国の国境にある山で関所があったところです。
を挙げ、上記の逸話について、
「江戸っ子の先祖が付けた名は、ただの大坂で、何の理屈もないのである。大きい坂だから大坂なのである。それを後世、付会好きの閑人階級の詩人たちによって、まことしやかな物語が作り出されたわけなのである。」
と述べています。なお、歌にある「さねかづら」とは蔓性植物で、漢字では「美男葛」とも書くそうです。このため、横関は、別名の美男坂についても、「これもやはり美佐吾とさねかづらのロマンスに結びつけてできた名称であろう」といっています。
標識は、坂上と坂下にそれぞれ東京都新宿区教育委員会設置の木製の角柱が立っています。
坂下には船河原町築土神社がありますが、これについて、本社である築土神社(現在、千代田区九段北にある)のウェブサイトによると、
船河原町はもともと江戸城内の平河村付近にあったが、1589年江戸城拡張の際、氏神の築土神社と共に牛込見附(現JR飯田橋駅)付近へ移転。さらに1616年築土神社が筑土八幡町に移転したことから、同町も筑土八幡町近くの現在地へ移転した(平凡社『郷土歴史大事典』参照)。ところが戦後、築土神社は千代田区九段に移転。他方で船河原町は現在地に留まったことから、地理的に神社から最も遠い氏子となってしまった。そこでここに飛地社を建て、築土神社の氏子であることを冠したものと思われる。
とのことです。
【写真撮影日】 1999年(AE)、2003年5月25日(@BCDFGHI)
【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】 2004年10月10日