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出羽坂(でわざか)

所在地: 新宿区南元町 → 地図 

@ 坂下から。右に標識が見える。

A 同じく坂下から。1999年撮影。右に標識が見える。

B 坂上から。右に標識が見える。

C 同じく坂上から。右に標識が見える。

D 坂下にある標識(新宿区教育委員会設置)。
E 坂上にある標識(新宿区教育委員会設置)。

【標 識】
説  明
 明治維新後、この坂上に旧松江藩主であった松平伯爵の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになった。松平邸内には、修徳園とよばれる名庭があったが、太平洋戦争後取り壊された。
設置者:
 新宿区教育委員会
設置日 平成九年三月


【この坂について】
 新宿区南元町4番の二葉乳児院とJR中央線の線路の間を南西へ向けて上る坂道です。上記の標識の説明では命名の由来がいまひとつ分かりにくいですが、横関英一『続江戸の坂東京の坂』の「土州橋と出羽坂」の章には次のとおり書かれています(因みに、同書の初版(単行本)は昭和五十一年(1976年)刊行)。

  現在の松平ホテルのあったところは、昔の永井家(幕末には永井信濃守)の屋敷であって、(中略)明治維新後、幕末の永井信濃守の屋敷あとは、三井家の屋敷となり、これを買収して引っ越してきたのは、牛込神楽坂の松平氏で、これが徳川時代の松平出羽守であったのである。この松平氏が明治になって、ここへ移って来たというわけなのである。土地の人びとは、このお屋敷を出羽様のお屋敷と呼び、その後、そこに新しくできた坂みちを切通しと呼んでいたのを、そのころから出羽坂と呼ぶようになったのであろう。そのことは、いまから二、三十年前、私がこの坂を実踏したときに、土地の古老の口から確かにきいた話である。
 松平出羽守といえば、出雲の松江藩主で、十八万六千石の大名であった。明治に生活した人なら、赤坂見附の閑院宮邸が、江戸時代の松平出羽守の上屋敷であったことは、だれでも知っていた。現在の衆議院議長公邸のあるところがそれである。
 ここ赤坂御門内の屋敷も、明治二年六月十七日にの版籍奉還とともに、やがて、なくなってしまったのである。同時に「出羽様のお屋敷」は、神楽坂辺へ引き移ったのである。(中略)この神楽坂の松平邸が、四谷鮫が橋の、徳川時代の永井信濃守の屋敷跡へ引き移ったのである。そして、それはいつごろのことであったかよくわからないが、神楽坂に「松平邸」と出ている地図は明治十九年(一八八六)の図であった。


 この説明にある「松平ホテル」については、「ホテル松平」としてこのページに載っています。これによると、同ホテルは、現在二葉乳児院などがある場所(南元町4番)に位置し、1949年に開業、1960年まで営業していたことがわかります。このページに掲載されている地図において同ホテルの南側にある道が出羽坂になります。

 なお、標識の説明にある「修徳園」で検索すると、明治十五年に松江松平家の家督を継いだ松平直亮伯爵が、明治二十六年に編纂し発行した「修徳園叢書」という文書が国会図書館のアーカイブなどから見つかります。

 坂道の標識は、新宿区教育委員会が設置したものが坂下と坂上に立っています(写真DE)。

【写真撮影日】 1999年(A)、2003年6月21日(@BCDE)
【この坂の本サイト掲載日】  2002年8月14日
【このページの作成日】 2010年12月18日

#このページは暫定版です。今後、折を見て、写真や記述の追加等、内容を拡充する場合があります。