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三分坂(さんぷんざか)

  所在地: 港区赤坂五丁目と同七丁目の境界 → 地図 

@ 坂下(南西)から。

A 同じく坂下(東南)から。奥に見えるのは報土寺。

B 報土寺の前から見上げる。左手に標識が見える。左端に見えるのは報土寺の築地塀(練塀)。

C 同じく報土寺前(Bよりやや下)から見上げる。1999年撮影。


D Bから少し上ったところから見下ろす。

E Cの撮影地点から少し上ったところから見上げる。

F Eの撮影地点から更に上ったところから見下ろす。

G Fの撮影地点とほぼ同じ地点から見上げる。

H Gの撮影地点から更に上ったところから見上げる。坂はここで左方直角(=北東方向から西北方向)に折れて上る。奥にあるのはTBS放送センター。

I Hの撮影地点から更に上った屈折部から坂上を見上げる。


J Iとほぼ同じ地点から見下ろす。

K Jから更に上ったところから見下ろす。

L 坂上から。

M 同じく坂上から。右手に標識が見える。

N 坂下部にある標識(港区設置)

O 坂上部にある標識(港区設置)

P 報土寺入口前の築地塀(練塀)の標識と雷電為右衛門の墓の標識

【標 識】
  説  明: 急坂のため、通る車賃が銀三分(さんぷん・百円余)増したためという。坂下の渡し賃一分に対していったとの説も。
  設置者: 港 区
  設置日: 平成六年三月


【この坂について】
 港区赤坂五丁目と七丁目の境界を北東に上り、更に西北に直角に折れ曲がって、TBS放送センター前まで上る傾斜の急な坂道です。
 標識は、港区が設置したものが坂上と坂下にそれぞれ一本ずつ立っています。
 
  坂下部は報土寺に面しており、坂に沿って築地塀(練塀)が立っています。この築地塀は港区の文化財となっており、港区教育委員会設置の標識が置かれています。また、報土寺には江戸時代の大関・雷電為右衛門の墓があり、その標識(同じく港区教育委員会設置)が築地塀の隣に置かれています(写真P)。

【「港区の文化財 報土寺 築地塀(練塀)」の標識の説明】
報土寺は、慶長十九年(一六一四)に、赤坂一ツ木(現赤坂二丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより安永九年(一七八○)に三分坂下の現在地に移転し てきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦に横に並べて入れた土塀を特に「練塀」ともいいます。
 報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿っ造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。
 平成十年九月一日 東京都港区文化財総合目録登録 東京都港区教育委員会

【「雷電為右衛門の墓」の標識の説明】
 明和四年(一七六七)信州(長野県)小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれ る。天明四年(一七八四)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政二年(一七九○)から引退までの二十二年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、三 十三場所、二百五十勝十敗の大業績をのこした。雲州(島根県)松江の松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化十一年(一八一四) 当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政八年(一八二五)江戸で没した。
 昭和五十年十二月
                東京都港区教育委員会設置 

【写真撮影日】 1999年(C)、2002年8月1日(BP)、2007年5月4日(@A、C〜O)
【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】    2007年5月12日(2010年10月8日一部修正)