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本氷川坂(もとひかわざか)

 別  名: 元氷川坂
 所在地: 港区赤坂6丁目10番と同18番・19番の間 ⇒ 地図

@ 坂下。左に見える建物(ソフトタウン赤坂)は勝海舟邸があった所で、それを示す標識と掲示板が見える。

A 坂下から。


B Aから少し上った所から見上げる。右に標識が見える。

C Bから少し上った同じ地点から坂下を見下ろす。

D Cとほぼ同じ地点から見上げる。

E Dから更に上った所から見下ろす。

F Eとほぼ同じ地点から見上げる。

G Fから少し上った所から見下ろす。

H Gとほぼ同じ地点から見上げる。

I Hから更に上った所から見下ろす。

J Iとほぼ同じ地点から見上げる。

K Jから少し上った所から見下ろす。

L Jとほぼ同じ地点から見上げる。

M 更に上った所にあるカーブから見下ろす。

N Mと同じカーブから見上げる。

O Nから更に上った所から見上げる。

P Oから更に上った所にあるカーブから見下ろす。


Q Pとほぼ同じ地点から見下ろす。1999年撮影。中央やや右手に木柱の標識が見える。かつてはこの位置に坂上の標識があった。

R Qと同じカーブから坂上部を見上げる。

S 坂上から。左に標識が見える。

(21) 坂上から。左に標識が見える。右側の敷地は氷川神社。

(22) 坂上東側に位置する氷川神社。

 
(23) 坂下にある標識(港区設置)

(24) 坂上にある標識(港区設置)

  (25) 坂下のソフトタウン赤坂が設置した「勝海舟邸跡」の標識(平成七年十一月設置)。 

【標 識】
  
説  明: 坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。社は明治十六年四月、氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。
  
設置者: 港 区
  
設置日: 平成十二年七月


【この坂について】
 港区赤坂6丁目10番と同18番・19番の間を幾度も曲がりながら北西から南東へ上る坂道です。かなり曲がりくねった少々長い坂です。坂上の東側は氷川神社です。

 坂道の標識は、港区設置のものが坂上と坂下にそれぞれあります。

 坂下東側の建物「ソフトタウン赤坂」は、勝海舟の邸宅跡であり、それを示す標識(写真25)と説明を書いた金属板が建物の壁に設けられています。金属板にある説明は次のとおりです。

勝 海舟邸跡の記
 港区赤坂六丁目一○番三九号の「ソフトタウン赤坂」が建つこの地は、幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した勝海舟が安政六年(一八五九)から明治元年(一八六八)まで住んだ旧跡である。
 海舟は終生赤坂の地を愛し、三カ所に住んだが、当所居住中の一○年間が最も華々しく活躍した時期に当たる。
 海舟は号で名は義邦。通称麟太郎、安房守であったから安房と称し、後に安芳と改めた。夫人は民子。
 海舟は文政六年(一八二三)、本所亀沢町の旗本屋敷=現墨田区両国四丁目の両国公園の地=で、貧しい御家人の子として出生。長じて赤坂溜池の筑前黒田藩邸=のちの福吉町、現赤坂二丁目の赤坂ツインタワービルや衆議院赤坂議員宿舎などの地=に通って蘭学を学び、その縁から新婚二十三歳で赤坂田町中通り=現赤坂三丁目一三番二号のみすじ通り=の借家で所帯を持った。
 三十六歳からは赤坂本氷川坂下=もとひかわざかした、のちの氷川町=のこの地に住んだ。
 明治元年四十五歳で、引退の徳川慶喜に従って、ここから静岡市に移ったが、明治五年(一八七二)再び上京し、満七十六歳で亡くなるまで赤坂区氷川町四番地=現赤坂六丁目六番一四号=に住み、参議・海軍卿、樞密顧問官、伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した。この時の屋敷跡は東京市に寄付され、平成五年(一九九三)春まで区立氷川小学校敷地として使われた。
 当所に住み始めた翌年の安政七年(一八六○)、幕府海軍の軍艦頭取=咸臨丸艦長として、上司の軍艦奉行木村摂津守、その従僕福沢諭吉らを乗せ、正使の外国奉行新見豊前守を乗せた米艦ポーハタン号に先行して渡航、日本の艦船として初めて太平洋横断・往復に成功した。
 文久二年(一八六二)十一月、海舟を刺殺しようとして訪れた旧土佐藩士坂本龍馬らに、世界情勢を説いて決意を変えさせ、逆に熱心な門下生に育てて、明治維新への流れに重要な転機を与えることになったのもこの場所である。
 明治元年三月には、幕府陸軍総裁として、、官軍の江戸城総攻撃を前に征討総督府参謀西郷隆盛と談判を重ね、無血開城を決めて江戸の町を戦火から救った。
 第一回会談は高輪の薩摩藩邸=品川駅前の、のちの高輪南町、現港区高輪三丁目のホテルパシフィックの地=で行われた。第二回については芝田町薩摩藩邸=のち三田四国町、現港区芝五丁目芝税務署辺りの地=または、三田海岸の薩摩藩蔵屋敷(くらやしき=倉庫)の表側にある民家=現港区芝五丁目の三菱自動車ビル周辺=で行われたとの両説がある。いずれも当所居住中のことである。
 明治維新では、明治元年五月、海舟の留守中に一部の官軍兵士がここの勝邸に乱入したが、海舟の妹で佐久間象山未亡人の瑞枝(旧名・順)が家人を励まして一歩も引かずに応対し、危急を救った。
 海舟は終生赤坂の地を愛したが、郊外の風光にも惹かれ、初めは葛飾区東四ツ木一丁目に、次いで洗足池畔の大田区南千束一丁目現大田区立大森第六中学校の地に別邸を設けた。墓は洗足池に面して造られ、自ら建てた西郷隆盛を偲ぶ碑と共に大田区文化財に指定されている。
  平成七年十一月吉日
           ソフトタウン赤坂管理自治会
               撰文 伊 波 新之助
               協賛 勝海舟顕彰会
               協力 港区郷土資料館
 
【写真撮影日】 1999年(Q)、2002年7月26日(LS(22))、2007年6月2日(左記以外)

【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】    2007年6月3日 (2010年7月16日写真Qを追加等)