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北条坂(ほうじょうざか)
 別  名: 鉄砲坂(下の方の坂)
 所在地: 港区西麻布3丁目と南麻布5丁目の境界 ⇒ 地図 
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| @ 坂下手前、外苑西通りの日赤病院下交差点から。 | 
      A 坂下から。2002年撮影。 | 
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| B 坂上から少し上った地点から見上げる。この部分は「鉄砲坂」とも呼ばれた。 | 
      C Bから更に上ったところから見上げる。左に標識が見える。 | 
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| D Cとほぼ同じ地点から見上げる。1999年撮影。左に標識が見える。 | 
      E CD上から少し上った地点から見下ろす。右に標識が見える。 | 
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| F Eから少し上った地点から見下ろす。 | 
      G Fとほぼ同じ地点から見上げる。このあたりは傾斜がなく平らである。 | 
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| H FGから少し上った地点から見下ろす。 | 
      I Hから少し上った地点から見上げる。2002年撮影。 | 
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| J Iから少し上った地点から見下ろす。 | 
      K Jとほぼ同じ地点から見上げる。坂はこの辺りから再び傾斜が付く。 | 
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| L JKから更に上った地点から見下ろす。 | 
      M Lとほぼ同じ地点から見上げる。 | 
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| N LMから更に上った地点から見下ろす。 | 
      O Nとほぼ同じ地点から見上げる。 | 
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| P NOから更に上った地点から見下ろす。右手に標識が見える。 | 
      Q 坂上の愛育病院前交差点から。写真左に行くと木下坂の坂上である。 | 
    
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| R 坂下の標識(港区設置) | S 坂上の標識(港区設置) | 
| 【標 識】 説 明: 坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったためにこの名がついた。 設置者: 港 区 設置年月: 平成五年十月  | 
    
【この坂について】
 港区西麻布3丁目と南麻布5丁目の境界を、北西から南東へ上る坂道です。
 坂下は外苑西通りの日赤病院下交差点、坂上はテレビ朝日通りの愛育病院前交差点になります。坂道の中ほどは傾斜がなく平らになっています。
 下の方の坂は「鉄砲坂」とも呼ばれます。横関英一『江戸の坂東京の坂』には、
  北条坂  港区西麻布三丁目と南麻布五丁目の境を西北に下る坂。坂下の正面の高台は日赤病院である。北条坂の末のほうを鉄砲坂と呼ぶ。昔、坂の南側に北条相模守の屋敷があった。
と書かれているほか、「鉄砲坂」の説明として、以下の文章があります(中公文庫版p158)。
  ・・・嘉永二年の江戸切絵図「麻布広尾辺図」(近吾堂版)には、北条坂のふもとのほうに、「井上左太夫組、御先手組」とある。「御先手組」というのは、戦時または将軍他行の際、先頭に立つ部隊であって、与力同心をもって組織したものであるが、その中には有力な鉄砲組が含まれていたのである。その鉄砲組が練習するところが鉄砲坂の崖下にあった。それから、井上左太夫というのは、江戸時代の世襲の御鉄砲方御用衆であった。だから鉄砲坂付近には、この井上左太夫組の組屋敷があったのである。
 標識は、港区が設置したものが、坂上部と坂下部にそれぞれ立っています(写真RS)。
【写真撮影日】 1999年(D)、2002年9月15日(AIR)、2008年7月5日(左記以外)
【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】    2008年7月6日