羽沢坂(はねざわざか)
所在地: 渋谷区広尾三丁目と港区南青山四丁目の境界
@坂下から。左側が港区、右側が渋谷区。 |
A 坂下から少し登った地点から見上げる。坂はここで左に少し折れる。 |
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B Aから少し登ったところから見上げる |
C Bから少し登ったところから見上げる |
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D 坂上部から | E 同じく坂上部から |
【この坂について】
東四丁目の交差点(五叉路。常陸宮邸前)から、渋谷区と港区との境界線となった道を西から東に登る坂道です。
坂道の標識は設置されていませんが、横関英一『江戸の坂 東京の坂』には、
「港区南青山七丁目五番九号と渋谷区広尾三丁目五番三三号の間を、東へ赤十字病院の方へと上る坂」
とあります。
また、東京都渋谷区立白根記念郷土記念館『渋谷の坂』(昭和60年)は、
「日赤医療センターの正面前通りから、東京女学園の敷地(広尾3丁目)と港区南青山7丁目14番との間を西に折れ、常陸宮邸付近の五差路に至る下り坂をいう。もと、このあたりは羽沢町の区域であったことからこの名がついた。五差路のある一帯は、いもり川が北から南に向けて流れている低地で、むかしは川に赤腹に黒い斑点のあるいもりが泳いでいたという。羽沢という地名は、『江戸砂子』によると、「羽沢 鶴谷、渋谷の内、建久二年源頼朝の飼鶴此所に来り巣をくふ。同三月に卵をなす。その雛はじめて羽うつ所を羽沢(はざわ)と言ふ。今は、はね沢といふなり。」と見える。
この羽沢坂は、現在でも道幅は3mほどの狭い道で、延長は約300mある。この下り坂の右側の旧赤坂高樹町(現、南青山7丁目)に、高木主水(1万石)の屋敷があった。
と述べています。前段の記述内容は、石川悌二『江戸東京坂道事典』の羽沢坂の記述(前半部分)と同じ部分が多く、おそらく同書から記述を引用したものと思われます。
【写真撮影日】 2003年6月21日
【この坂の本サイト掲載日】 2003年6月21日
【このページの作成日】 2004年8月23日