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北区の坂(5) 〜 赤羽南部方面 【12坂】

各坂道の位置はこちら → 地図

水車の坂
(すいしゃのさか)
【標識の説明】
現在は石段(北区西が丘二ー二七ー一二地先)となっていますが、昔はこの下に水車小屋があり、近くの農家が利用していました。水車に荷を運んできた馬が坂の途中から落ちて死んだこともあり、お稲荷さんと馬頭尊とが並んで立っていました。現在は稲付川も暗渠となってしまい、水車もありませんが、石段は西が丘から十条銀座を通って十条駅へ向かう通勤の人でにぎわっています。


坂下から
野間坂
(のまざか)
【標識の説明】
講談社の創立者野間清氏の旧別邸前の坂で、坂名もそれにちなむものである。その跡は現在「北区立稲付公園」となっている。


下の写真で、左側が稲付公園の入口になっています。

鳳生寺坂
(ほうしょうじざか)
【標識の説明】
この坂は、鳳生寺門前から西へ上る坂で、坂上の十字路まで続き、坂上の旧家の屋号から
六右衛門坂とも呼ばれます。坂上の十字路を右(北)へ向かうと赤羽駅西口の弁天通り、左(南)に向かうと十条仲原を経て環七通りへと至ります。名称の由来となった鳳生寺は、太田道灌の開基と伝えられ、岩淵宿にあったものを移したので、現在も岩淵山と号しています。

坂下に鳳生寺があります。
鳳生寺
蛇坂
(へびざか)
【標識の説明】
この坂は別のようにくねっているところから名がついた。蛇坂とその西にある市場坂の谷を北谷といった。谷の奥にわき水があり、釣堀があった。夏の夕暮れどきこの谷をうめつくす程ヤンマが飛び交い、この坂でとんぼ採りをする子供達でにぎわったという。
庚申坂
(こうしんざか)
【標識なし】

法安寺の標識に書かれている坂です。
法安寺坂
(ほうあんじざか)
【標識の説明】
赤羽西保育園・法安寺の西を経て第三岩淵小学校の北東角へ登る坂。坂名は法安寺にちなんでいる。昭和三年頃法安寺は法安堂といい、堂下には三つの泉があった。周辺には願行の太鼓が鳴り響き、西側の庚申坂より先へ草原が広がっていたという。

坂を上って、途中、左側に法安寺があります。
法安寺
真正寺坂
(しんしょうじざか)
【標識の説明】
岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西に登る坂です。坂の北側(赤羽西二ー一四ー六付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。坂の登り口南側にある明和六年(一七六九)十一月造立の庚申塔に「これより いたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていることがわかります。かつて、稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです。

左は坂下にある庚申塔と標識です。
弁天坂
(べんてんざか)
【標識なし】

坂下に「弁天坂下」のバス停があります。
三日月坂
(みかづきざか)
【標識の説明】
道灌湯から東南へ登り中坂へでる坂です。道灌湯のあたりに、大正三年(一九一四)に帝国火工品製造所(導火線工場)ができ、この工場のためにできた坂といいます。工場へ往来する馬車などでにぎわいましたが、大正四年五月に工場は爆発事故で焼失しました。その後このあたりは住宅地となり、坂を登りきった北側あたりに三日月茶屋ができました。坂名はこれに由来しています。また、道灌湯が開業したことから
道灌坂とも呼ばれています。

「道灌湯」は現在でも坂下に存在しています。
中坂
(なかざか)
【標識なし】

昔は清水が湧いていたといわれているそうです(姥ヶ橋にある「稲付の小径」の案内板の記述)。
坂上において、三日月坂の坂上にぶつかります。
静勝寺の坂
(じょうしょうじのさか)
【標識なし】

姥ヶ橋にある「稲付の小径」の案内板の記述で知りました。下の写真は静勝寺(稲付城址)に登る石段です(『歩いてみたい東京の坂』では「稲付城址の坂」と呼ばれている)が、石段を登らずに左手を登り、さらに右に折れ曲がって登り静勝寺の門の前まで登る坂道(写真左)です。
弁天池の坂
(べんてんいけのさか)
【標識の説明】
亀ヶ池弁財天の西から南に赤羽台団地へ登る坂で、昭和三十四年(一九五九)から始まった赤羽台団地の造成にともなってできた新坂です。かつては、亀ヶ池弁財天から東北に登る坂があり、これを池の坂といいましたが、団地造成の時になくなりました。坂名は、この池の坂と亀ヶ池弁財天にちなんでつけられました。亀ヶ池は大正元年(一九一二)十一月にほとんどが埋め立てられ、現在はわずかに亀ヶ池弁財天にその名残をとどめています。


右の写真は坂下にある亀ヶ池弁財天です。手前の池には亀がたくさんいました。