錦華坂(きんかざか)
所在地: 千代田区神田駿河台一丁目と猿楽町一丁目の境界 ⇒ 地図
@ 坂下から.。左側は錦華公園、右側は明治大学である。 |
A 同じく坂下から。夏期は錦華公園の樹木が茂り、坂は薄暗い。 |
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B 坂下から少し上ったところから見上げる |
C Bから少し上ったところから見上げる |
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D Cから更に上ったところから見下ろす。 |
E Dとほぼ同じ地点から見上げる。左に標識(千代田区設置)が見える。 |
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F Eとほぼ同じ高さから見上げる。左に標識(千代田区設置)。1999年撮影。 |
G DEFから少し上ったところ見下ろす。左に標識(千代田区設置)が見える。 |
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H Gとほぼ同じ地点から。右に標識(千代田区設置)。1999年撮影。 |
I Hからさらに上ったところから見上げる。左側の建物は明治大学、右側は山の上ホテルである。 |
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J Iから少し上ったところから見下ろす。左の路面に町会設置の小さい石製の標識があるのが見える。ここを左へ曲がり上ると山の上ホテルの入口がある。 |
K Jとほぼ同じ地点から見上げる。 |
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L JKからさらに上ったところから見下ろす。 |
M Lとほぼ同じ地点から見上げる。 |
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N 坂上から |
O 坂半ばにある石製の標識。裏面には「昭和五十年一月 駿河台西町会 廣瀬瑞枝書」と彫られている |
P 坂半ばにある標識(千代田区設置) | Q Pと同じ標識(千代田区設置) |
【標 識】 説明: この坂を錦華坂といいます。名称は坂下に錦華小学校があるからです。この坂を勧学坂と呼ぶのは誤りです。この坂は大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により新らしく作られた道路です。「議決要綱の三」には「南甲賀町より袋町三番地を横断して裏猿楽町二番地先錦華小公園東側に通ずる六米街路を新設」とあります。 設置者: 千代田区 設置日: 昭和五十年三月 |
【この坂について】
千代田区立お茶の水小学校(元の錦華小学校。夏目漱石も一時学んだそうです。平成五年に学校統廃合により現在の名称に変更)の横から北へ上る坂道です。坂道の西側には錦華公園があります。
標識は、坂の中ほどに千代田区設置のものがあります(写真PQ)。それより少しのぼったところに駿河台西町会設置の石製の小さな標識がおかれています(写真O)。
千代田区設置の標識の説明中、「この坂を勧学坂と呼ぶのは誤りです」という一読してよく分からない記述があります。いきなり「勧学坂」といわれても知らない人がほとんどでしょうし、さらにそれが「誤りです」と言われても当惑するばかりです。
これについては以下のとおり推測されます。まず、横関英一『江戸の坂東京の坂』には、「勧学坂 千代田区神田駿河台二丁目。文化学院、浜田病院のあったところ(今はお茶の水美術学院)の前から錦華小学校のほうへ下る坂。この坂上に松下大学(専助)の屋敷があった。」との記述があります。また、石川悌二『江戸東京坂道事典』は、「・・・『異本武江披翔抄』によれば、江戸時代はこの坂を勧学坂、または観学坂と名づけている。しかし、そのころはこの坂辺に学校などはなかったのだから、坂名のいわれがわからず苦考した。ところが、ふとしたことからひらめいたのは、この坂下のほうは猿楽町で、むかしその地に猿楽の名人の観世大夫なるものが屋敷を賜って住んでいたことから、いまの猿楽町の町名がおきているという。すると観世の猿楽をつづめれば「観楽」となる。おそらく観楽坂とよんだのが転化して観学坂、あるいは勧学坂となったものだろう。・・・」と記しています。
これらから判断すると、(ア)江戸時代に「勧学坂」という坂はあったが、その名称の由来に必ずしも定説はなさそうである、(イ)いずれにせよ、千代田区としては、この道は大正時代に作られた新しい道であり、江戸時代にあった勧学坂がこの錦華坂に該当することはない、という見解をとっている、ということになると思われます。
【写真撮影日】 1999年(FH)、2002年8月3日(CO)、2004年3月21日(@BGLMPQ)。2010年7月19日(左記以外)
【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】 2004年4月3日 (2010年7月21日写真追加・差替等)