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善光寺坂(ぜんこうじざか)

所在地: 文京区小石川2丁目と3丁目の間 → 地図 

@ 坂下から。

A 坂下から。2002年撮影。

B 坂下から少し上ったところから見下ろす。

C Bとほぼ同じ地点から見上げる。

D BCから更に上り善光寺の山門前から見下ろす。

E 善光寺の山門前から見上げる。2002年撮影。

F 善光寺の山門。右手に標識が見える。

G 善光寺の山門横から。右手前に標識が見える。

H 善光寺の山門前から見下ろす。

I 善光寺の山門横から見上げる。

J Iから少し上ったところから見下ろす。

K Jとほぼ同じ地点から見上げる。右手に見えるのは別の善光寺の山門。

L JKから更に上ったところから見下ろす。

M Lとほぼ同じ地点から見上げる。

N LMから少し上ったところから見上げる。

O Nから少し上り沢蔵司稲荷入口前から見下ろす。

P 沢蔵司稲荷入口。

Q Pから少し上った地点から見下ろす。2002年撮影。

R Qから少しに上った地点から見下ろす。

S Rとほぼ同じ地点から見上げる。

(21) RSから少しに上った地点から見下ろす。

(22) (21)ととほぼ同じ地点から見上げる。中央に椋の木が見える。

(23) (21)(22)から少しに上った地点から見上げる。

(24) (23)から少しに上った地点から見下ろす。

(25) 坂上から。

(26) 坂上手前から。中央に椋の木が見える。

(27) 善光寺本堂。

(28) 慈眼院澤蔵司稲荷。

(29) 善光寺前にある文京区教育委員会設置)の標識。
(30) 坂上の椋の木。坂上側から。 (31) 坂上の椋の木。坂下側から。

【標 識】
説  明
  坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院と なった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には、坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。
  “一しぐれ 礫や降りて 小石川” はせを(芭蕉)
 また、この界隈には幸田露伴(1867〜1947)・徳田秋声(1871〜1943)や島木赤彦(1876〜1926)、古泉千樫(1886〜1927)ら文人、歌人が住み活躍した。

設置者:
 文京区教育委員会
設置日 平成13年3月


【この坂について】
 文京区小石川2丁目番と3丁目の間を東から西に上る坂道です。坂の中ほどの北側に坂名の由来となった善光寺があります(写真(27))。

 また、坂上部に慈眼院「澤蔵司稲荷」があり(写真(28))、また坂上にはその澤蔵司(「たくぞうす」と読む。この名前の修行僧の姿をした稲荷大明神が伝通院で浄土宗を学んだとの言い伝えが江戸名所図会等にある→こちら)の魂が宿っているという椋の木があります(写真(30)(31))。椋の木のある坂上から更に進むと伝通院前に出ます。

 なお、この坂上の椋の木については、澤蔵司稲荷のサイトに次のとおり書かれています。なお、無量山とは伝通院のことです。
  江戸名所図会「無量山境内大絵図」でも描かれているとおり現存する「椋の木」は江戸時代も傳通院本坊から澤蔵司稲荷へ続く参道の途中に存在していました。
  絵図によると「椋の木」の周りには「お茶屋」も有り無量山内の シンボリックな信仰の対象と同時に木の周辺は憩いの場にも なっていたようです。
  明治20年頃、東京府により道路整備、拡張の工事が行われ現在のように道路の真ん中に出てしまいました。平成元年頃まではまさに「椋の木」をはさんで左右共に車の通行が出来ました。
  残念ながら昭和20年5月25日の空襲での火災で上部が焼け、危険なため昭和30年代に2/3ほど幹が伐採されて しまいました。


 坂道の標識は、坂半ばの善光寺山門前に文京区教育委員会設置のものが立っています(写真(29))。


【写真撮影日】 2002年7月20日(AEQ)、2007年8月4日(左記以外)

【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】    2008年6月21日(2010年10月3日一部修正)