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堀坂(ほりざか)

別  名: 宮内坂(くないざか)、源三坂(げんぞうざか)
所在地: 文京区小石川2丁目3番/4番/5番と20番/21番の間 → 地図 

@ 坂下から。

A 同じく坂下から。2002年撮影。

B Aから少し上ったところから見下ろす。

C Bとほぼ同じ地点から見上げる。2002年撮影。

D BCから少し上ったところから見下ろす。

E Dとほぼ同じ地点から見上げる。

F DEから少し上ったところから見下ろす。

G Fとほぼ同じ時点から見上げる。

H FGから少し上ったところから見下ろす。

I Hとほぼ同じ時点から見上げる。

J HIから少し上ったところから見上げる。左に石製の標識が見える。

K Jから少し登ったところから見下ろす。右に石製の標識が見える。

L Kから少し上ったところから見上げる。右に標識が見える。

M Lから少し上った地点から見下ろす。左に標識が見える。

N Mから少し上ったところから見上げる。

O Nから少し上った地点から見下ろす。

P 坂上から。

Q 写真Rと同じ場所にかつてあった標識(東京都文京区教育委員会設置)。

R 坂の半ばにある標識(文京区教育委員会設置)。
S 坂の半ばにある石製の標識。「ほりさか」と彫られている。

【標 識】
説  明
  「堀坂は中富坂町の西より東の方、即ち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助(2300石)の邸ありしに因れり。今坂の中途に"ほりさか"と仮字にてしるしたる石標あり。此坂は従来宮内坂又は源三坂と唱へたるものにて。堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)
 この場所の北側に旗本堀家の分家利直(後に利尚、通称宮内)の屋敷があったことから、この坂は別名「宮内坂」と名づけられた。また、当地の名主鎌田源三の名から「源三坂」ともいわれた。「堀坂」という名称は、文政(1818〜30)の頃、堀家が坂の修理をして「ほりさか」と刻んだ石標を建てたことからいわれるようになった。
 坂下に“こんにゃくえんま”の伝説で名高い「源覚寺」がある。

設置者:
 文京区教育委員会
設置日 平成16年3月


【この坂について】
 
 文京区小石川2丁目3番と21番の間から同4番/5番と20番の間へ西方に上る坂道です。
 なお、源覚寺(こんにゃくえんま)は、坂下にあるというより、坂下から北方へ100メートルほど行った東側にあります。

上記の標識の説明文にある「ほりさか」記された石標が、現在も坂の半ばに置かれています(写真S)。

 また、坂道の標識として、坂上部に文京区教育委員会設置のものが立っています(写真R)。
 この標識には、以前、別の説明板(昭和63年3月東京都文京区教育委員会設置)が嵌められていました(写真Q)が、その説明文は以下のとおりでした。

【以前の標識の説明】
「堀坂は中富坂町の西より東の方、即ち餌差町に下る坂をいふ。もと其の北側に堀内蔵助の邸ありしに因れり。今坂の中途にホリサカと仮字にてしるしたる石標あり、此坂は従来宮内坂又は源三坂と唱へたるものにて、堀坂といへるは其後の称なりといふ」(『新撰東京名所図会』)
 初め、旗本堀内蔵助の二代目の利尚(通称宮内)の屋敷がこの北側にあった。それでこの坂は「宮内坂」と名づけられた。後、ここの名主鎌田源三の名をとって「源三坂」といわれた。ところが文政の頃(1818〜30)堀家が坂の修理をして「ホリサカ」と刻んだ石柱を建ててから「堀坂」というようになった。
 坂下に“こんにゃくえんま”で名高い「源覚寺」がある。

【写真撮影日】 2002年7月20日(ACQ)、2007年8月4日(左記以外)
【この坂の本サイト掲載日】 2002年8月14日
【このページの作成日】    2007年9月1日(2010年10月16日一部修正)